ファイナンス 2022年9月号 No.682
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房総往還京成千葉駅跡 ⛩本町佐倉道吾妻町蓮池通千葉銀座((新通町)勧銀跡扇屋跡市場町図2 市街図ファイナンス 2022 Sep. 59そごう(出所)筆者作成線路跡近代の道三井住友イオンモール幕張新都心のシルエット旧千葉駅跡京葉本店旧そごうニューナラヤ→旧三越丸井跡都川千葉駅跡参道に見立てた公園街路の構想千葉跡中央公園98跡田畑↓パルコ跡十字屋跡緑屋跡奈良屋跡裁判所県庁市役所跡奈良屋跡千葉神社通町公園通町横町広小路旧川崎→美術館千葉合同跡→京葉中央銀座大和橋吾妻橋銚子道亥鼻城址社)の出資比率が36%を超えていた。明治29年(1896)には房総鉄道が開通。千葉駅からスイッチバックして大網方面に向かう線形だった。町内には本千葉駅も設置された(明治35年(1902)まで「寒川駅」)。今の京成電鉄千葉中央駅の約100m南にあった。本千葉駅からは都川に沿って専用線が分岐し水路と連絡していた。総武鉄道、房総鉄道ともに鉄道国有法で明治40年(1907)に国有化され、総武本線、房総線となった。房総線は現在の外房線である。鉄道の開通で千葉の物流は水路から陸路にシェアを移していったが、人の流れや街の中心を変えるのはもう少し先の話である。街の構造に影響を与えたのは京成線の乗り入れだ。大正10年(1921)、京成千葉駅が開業した。当時は今の中央公園の場所にあり、昭和6年(1931)までは単に「千葉駅」という駅名だった。京成本線は名前の通り東京と成田を結ぶ路線だが、京成津田沼駅から分岐する千葉線が先に整備された。京成線の開業で中心街は本町から次第に東に広がっていった。大正14年(1925)、第九十八銀行が駅の向かい側、今の千葉中央ツインビル1号館の場所へ本店を新築し移転する。3行合併後は千葉銀行の本店となった。戦後の中心は千葉銀座へ千葉駅は明治27年(1894)に開業した。当時は総武鉄道の駅で、現在地より約600m東側、今の市民会館の場所にあった(図2)。開業時の開通区間は市川駅-佐倉駅で、その年のうちに本所駅(現・錦糸町駅)まで延伸した。千葉駅は終点ではなく途中駅だった。途中駅は船橋駅と千葉駅のみで今の一般的な特急のような駅間距離だ。戦後になって、街の中心が千葉銀座に移ったことが地価で確認できる。昭和34年(1959)の最高路線価は「吾妻町2丁目奈良屋デパート前銀座通」だった。銀座通は戦後の名称で元は新通町といった。明治の時分は区画の最東端だったが、戦後はこちらがメインストリートになった。通りの南側には裁判所や県庁など、明治以降に新築された施設が建っている。まとまった土地が必要な施設が集まった経緯からも、銀座通が旧市街地の外縁だったことがうかがえる。千葉には銀座通がもうひとつある。南北軸の千葉銀座に対する東西軸の中央銀座である。この2軸が戦後の商業中心地といえる。奈良屋デパートは両銀座が交差する角地にあった。奈良屋デパートは昭和を代表する地域一番店である。祖を辿れば伊勢生まれの初代杉本新右衛門が寛保3年

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