ファイナンス 2022年9月号 No.682
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第31回 「千葉県千葉市」図1 旧川崎銀行千葉支店(千葉市美術館さや堂ホール)(出所)令和4年7月31日に筆者撮影275D510C240E295E540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D275D270D2,350C2,390C610C550C600C540C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D参道に見立てた公園でまとまる新旧市街舟運と街道の街の本町千葉といえば、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場した千葉常つね胤たねの騎馬像が亥いの鼻はな城址にある。千葉が城下町だったのには違いないが鎌倉時代の話。近世の政治拠点は総武本線で千葉から5駅内陸の佐倉にあり、千葉は佐倉藩の外港だった。佐倉藩の年貢米は佐倉道で千葉に運ばれ、江戸行きの五ご大だい力りき船せんに積み替えられた。千葉の街は城下町というより港町、かつ寒川港を拠点とする物資の集散地として発展した。佐倉道から江戸に向かうルートは広小路交差点で2手に分かれる。片方が本ほん町ちょう~市いち場ば町ちょうを通り寒川港に至る道、もう片方が通町を通り登戸港をかすめ、海岸線に沿って走る千葉街道である。千葉の街はこの2つの道に沿ってできた。寒川港に繋がる水路が都みやこ川がわで、都川と本町・市場町の南北軸が交差するところに大やまと和橋ばしがあった。橋の近辺には荷上場があり、近代以前は市場が開かれ賑わった。市場町の名はこれに由来する。明治期の街の中心は本町である。千葉県統計書の地価最高価格で本町が初めて登場するのは昭和2年(1927)。後述の通りこの頃は1筋西の吾妻町も賑わっていたが、少なくとも昭和2年までは本町が千葉の一等地だったとうかがえる。本町は今の千葉市美術館の場所に川崎銀行があった。今の三菱UFJ銀行の源流の1つである。千葉に進出したのは明治8年(1875)である。銀行制度が発足する前で当時は「川崎組」といった。現存する店舗は昭和2年(1927)に建てられたネオ・ルネサンス建築で矢部又吉の設計。千葉空襲による焼失を免れた貴重な近代建築である。保存方法がおもしろい。中尊寺金色堂の「鞘堂」のように、歴史的建造物をすっぽり覆うかたちで地上12階鉄骨造のビルを建てた。旧川崎銀行は新ビルの1、2階部分にあり「さや堂ホール」として使われている。本町には三井銀行もあった。前身の三井組を含め明治9年(1876)に出張店を出し、明治27年(1894)に撤退した。旧川崎銀行の並びに京葉銀行本町支店があるが、昭和40年(1965)に駅前に移転するまではここが本店だった。旧本店を構えたのは昭和19年(1944)で当時は千葉合同無尽といった。千葉合同銀行の本店を譲り受けたもので、元は大正14年(1925)に建てられた総武銀行の本店だ。当時の建物は既に建て替えられ現存しない。千葉合同銀行は地元地銀の千葉銀行の源流の1つである。千葉銀行は昭和18年(1943)、千葉合同銀行、小見川農商銀行、第九十八銀行が合併して発足した。前身3行のうち元々千葉に本店を構えていていたのが第九十八国立銀行で通町にあった。明治11年(1878)に士族と地元の地主によって設立。国立銀行制度の満了に伴い第九十八銀行に改称した。みずほ銀行の前身行の1つである安田銀行との関係が深く、3行合併時点で安田保善社(今風にいえば安田銀行グループ本 58 ファイナンス 2022 Sep.路線価でひもとく街の歴史

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