ファイナンス 2022年8月号 No.681
52/74

4. 今後の論点:労働契約ときめ細やかな情報収集(上田)それを支えるものが、本来的にはプロフェッショナリズムで、プロフェッショナルによるガイダンスなのでしょうね。(神林)そうです。ただ、プロフェッショナリズムだとかプロフェッショナルによるガイダンスだからといって、完全に自由裁量に任されるわけではありません。たとえば医療の世界では、標準治療手順が決まっています。経済学の世界でも、標準的な経済学の教授方法が決まってきています。アメリカの経済学会では、常に経済学教育に関する特別部会が設けられていて、経済学を教える標準的カリキュラムなどが共有されるようになっています。その標準手順に沿えば、あとは教員の自由裁量と競争原理という形になりますが、公的な手順の設定と自由裁量のバランスは、プロフェッショナルの各分野で探していかないといけないと自分は考えています。(上田)日本において、今後、仕事・働き方・賃金のあり方を考えていく際には、どのようなテーマについてより深く考えていかなければならないとお考えでしょうか。(神林)労働市場については、労働契約をどう考えるかが、本質的な問題だと考えています。本来、法律や契約を書けば、その意味しているところが明確に分かり、法律や契約条項に違反している状態も定義できると考えます。しかし、労働市場の場合には、労働契約で書かれていることが何であったとしても、それと異なる実態が、労使で合意すれば公平・公正な取引だと理解されることが多く、現場が、契約やら法律やらをおいて先にいってしまうことがあります。結局、法律や契約は軽視されすぎていて、その契約関係に入っていない人から見ると何が起こっているか分からなくなります。それに、そもそも何かまずいことがあったときに立ち返る基本的なルールがなくなってしまいますから、その結果として、一方的に被害を受けてしまう人たちが出てきてしまいます。そのため、紛争が起こった時には、どうやって関係を直すのか、それぞれに則して修復ルートを作りながら社会的公正性を担保していくという、やっかいなやり方をとる必要があります。こうした迂遠なやり方に嫌気がさして、現場のフレキシビリティを多少犠牲にしてでも、事前に労使関係を客観化しておくべきだという要望がでてきて、「ジョブ型」狂騒曲で踊っているのかもしれません。つまり、労働市場の場合には、労使の自由裁量をどこまで制限するべきかを考えないといけないと思います。ところが、社会保障の場合には全く逆です。法律に定められた杓子定規の判断基準が末端まで浸透していて、本来であれば手当てをしなければいけない人達が、救いあげられなくなりつつある。例えば、生活保護の水準は、行政での恣意的な決定が法律上排除されていますが、本来であれば被保護世帯の事情はそれぞれなわけで、保護水準も様々なわけですよね。行政の末端での政策担当者の現場での自由裁量をどの辺まで認めるかを考えることで、社会のフレキシビリティを適当なところに着地させることが求められていると思います。(上田)個別の判断を行っていく際の難しさは、それぞれの人の置かれている状況が千差万別で、それをデータとして把握することは困難であるために、細かくルールを作って適用することが困難であったということが大きな理由だと思います。逆に、データをきちんと丁寧に集めることによって、より実態に近い評価ができるようになっていくことによって改善されるという方向性は考えられるのでしょうか。(神林)より多くのデータを集めて詳細な情報を吸い上げられるようにすると、そのデータから構築されたルールでカバーできる範囲が広がり、そのルールから 48 ファイナンス 2022 Aug.

元のページ  ../index.html#52

このブックを見る