ファイナンス 2022年8月号 No.681
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私は、かねてより経営は「生き方」である、Ⓒ山口結子財務省広報誌「ファイナンス」はこちらからご覧いただけます。ファイナンス 2022 Aug. 1と訴えてきた。経営は、数値や数式、流行りの経営フレームワークがあればできるものではない。経営はあくまで人の営為であり、そこに関わる人間たちの生き方が投影される。しかし、この本質を我々はつい忘れ去り、モノマネのハウツーやツールに踊らされ、「日常の数学化」に陥っている。それは、哲学者エトムント・フッサールが『危機書』で第1次世界大戦に向かったヨーロッパを憂いて警告した状況に似ている。戦略を、もう一度人間のもとに取り戻そうではないか。意味づけや価値づけのプロセスは、「いま・ここ」の直接経験、そして「思い」ありきではじまる。科学や理論が先行することは決してない。知の源泉は、無意識も含めた暗黙的な主観にある。個人の主観を、他者との共感を媒介に全身全霊の知的コンバットを通じて「我々の主観」、そしてあらゆる知を綜合して集合知にしていく価値創造プロセスがイノベーションを創出する。私は、これを人間くさい戦略(ヒューマナイジング・ストラテジー)と呼んでいる。壮大なより善い目的の実現に向かって、目の前の動く文脈に応じて、新しい現実と時空間を共創する意味づけのプロセスであるヒューマナイジング・ストラテジーは、人間の「生き方(a way of life)」の集合的な物語りなのである。世の中がいくらDX、AI化、メタバースとなっても戦略の本質は変わらない。歴史学者ジョン・ルイス・ギャディスは、『大戦略論』で古代ギリシャの寓話から「キツネはたくさんのことを知っているが、ハリネズミはでかいことを一つだけを知っている」を引用し、ハリネズミの方向感覚とキツネの環境変化に対する鋭い感性を携えて、原則を重視しながらも臨機応変に方策を繰り出していく実践的知恵がコモンセンスになると説いた。ヒューマナイジング・ストラテジーでも、物事や問題を二項対立(dichotomy)として捉えるのではなく、二項動態(dynamic duality)として捉える。状況に応じて双方を両立させ、全体の綜合をダイナミックに追求するのである。我々は日々、一見相反する事柄に直面し、その都度選択を迫られている。しかし実のところは、安易に妥協して、選択しやすいものを選んでいないだろうか。あるいは、いずれの選択肢もその意味するところを熟慮せず、中途半端に放置していないだろうか。一見相反する物事や問題は、さまざまな矛盾や葛藤や混乱を生じさせる。しかし、これはチャンスだ。人間の創造性は異質なものとの出会いから生まれる。だからこそ、軋轢から生じる不協和音や摩擦から逃げずに向き合って、他者とスクラムを組んでぶつかり合い、葛藤を厭わずトライ&エラーを行う。そのダイナミックなプロセスから「こうとしか言えない」という矛盾を超える新しい発想に集合的に跳べるのである。紛争やウイルス、自然災害などで日々尊い命は奪われている。こんな混迷な時代でも、残された私たちは生きていかなければならない。そこに絶対的な正解も完璧なマニュアルもない。「自分ごと」として目の前の動く現実に向き合い、高い理想に向かって、創造性を発揮して、日々試行錯誤しながら経験の中の実践と反省を通じて、他者とともに生き抜いていくしなやかでしぶとい「野性」が必要だ。それは決して根性論ではない。二項動態的「生き方」は、理想主義的な実践論なのである。一橋大学 名誉教授野中 郁次郎二項動態的「生き方」のすすめ

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