ファイナンス 2022年8月号 No.681
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プロフィール大和総研主任研究員 鈴木 文彦仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。専門は地域経済・金融。昨年12月に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)出版ファイナンス 2022 Aug. 37銀行と百貨店」である。中心地とはいえ具体的には銀行街や商業街であり、実際、街の歴史を調べようと思えば地方銀行あるいは百貨店の社史に寄り頼む部分が大きいからである。仙台の回では芭蕉の辻から青葉通りに銀行街が移転した件について書いた。とりわけ中心部の栄枯盛衰を示すのが百貨店だ。大正・昭和に出現した百貨店は当時の街の一等地にあった。戦後、都市への人口集中に伴って増床を重ね、平成初めに全盛期を迎えた。鉄道から自動車の時代になり街の中心が郊外に移る。これも鳥の目線で眺めれば交通手段の主役交代を反映した中心地の移転だが、蟻の目には別の景色が映る。移転の背後には、百貨店を盟主とする中心商店街と、バイパス沿いや高速道路のICの麓に進出したショッピングモールを盟主とする郊外集積との競争があった。一見すると立地間競争だが、その実は、伝統的なスタイルとスケール感の商業に対し、新しいスタイルとスケール感の商業が次世代の主流を巡って挑んだかたちだ。考えてみれば、新業態に挑戦するにあたって既存勢との軋轢をできるだけ避けるため郊外に進出するのは理に適った選択である。郊外はマーケティング戦略でいう「ブルーオーシャン」だったのだ。バイパス沿いに店が出始めた80年代、ロードサイドはまだ普及品や最寄り品のまとめ買いニーズに応える場所だった。特に2000年代以降、中心商業地の総売場面積に匹敵する巨大店の進出が目立つ。買回り品に注力し棲み分けを図ってきた商店街のシャッター街化が進み、百貨店の撤退も相次いだ。そもそも水路と街道からなる旧市街は自動車の時代に不利だ。実際、交通渋滞や駐車場不足が問題となっていた。しかし、こうした弱みは「住まう街」のポジショニングで強みになる。重要な環境変化は高齢単身化、ネット通販の普及そしてインフラ老朽化の3つだ。まずは郊外住宅地でなく街なかの中高層住宅に住む人街の弁証法第4の前提「旧市街は本来の住まう街として再生する」は大テーマ「街の構造を発展史的に把握し将来の街づくりを考えること」の回答でもある。再生の道筋は街の発展史にある。が増える。次に、ネット通販が買い物の主流になり、週末に家族でミニバンに乗って郊外大型店でまとめ買いするスタイルが潮目を迎る。10数年後にはネット通販に抵抗のない団塊ジュニア世代が高齢層になるのだ。最後に、街の拡大は水道はじめ都市インフラの制約がある。財政問題を考えれば街はコンパクトに回帰する。持続可能な、SDGs流にいえば目標11「住み続けられるまちづくり」だ。「住まう街」に狙いを定めたまちづくりのカギになるのが歴史と公園だ。徒歩と舟運が土台の旧市街は山の稜線や水辺の景観を取り入れる工夫が施されている。元々の意図を汲んだうえで可能な限り再現するのも一考だ。観光目的とは限らない。一義には街に住む人が自分の街に誇りと愛着を持つことだ。シビックプライドあるいはシチズンシップといわれる。連載で公園まちづくりに着眼したのは横浜、熊本、大宮そして浅草だ。拠点公園とシンボル街路は、時代を経て分散した街を一段上のレイヤーでひとつにまとめる都市軸となる。熊本は明治の古町界隈(唐人町)と戦後の下通界隈が熊本城公園・シンボルプロムナードを媒介に接するようになった。大宮は大宮駅前とさいたま新都心に分散した街が、氷川参道を媒介に大宮公園(氷川神社)・氷川参道を介して一体化する。鉄道時代の郊外が自動車時代の中心地となり、元の街はまるで拠点間競争に敗北したかのように廃れてしまう。しかしこれは一面的な見方であり、発展史を経て拡大した市街地のひとつの要素として生き続ける。旧市街は「住まう街」という新たな役割を与えられ、徒歩と舟運の街としての出自を活かして再生する。連載27都市に多かれ少なかれあてはまる再生の経緯を、筆者は「街の弁証法」と呼んでいる。いったん否定された物事が一段上のレイヤーで再生する過程に掛けた。連載は続くが、これまで書いた30回分は書籍に換算して300頁ほどになる。単行本化が将来の夢だが実現のあかつきに本稿はあとがきに充てるつもりでいる。

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