ファイナンス 2022年8月号 No.681
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第30回 ふりかえり編分析にあたっての■つの前提Copyright © 2020 Daiwa Institute of Research Ltd. All rights reserved.275D510C240E295E540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E本日のテーマ560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D275D270D2,350C2,390C610C550C600C540C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D(出所)鈴木文彦「地域の見方、街の歩き方~地域資源の活かし方に着眼した地理・歴史の見方~」(令和2年、青山学院大学大学院国際マネジメント研究科(青山ビジネススクール:ABS)講座「地域活性化のプランニング」(宮副謙司教授)の授業内講演レジメ)3街の構造を発展史的に把握し将来の街づくりを考えること■■街の中心はときの交通手段に伴って移転する■■新しい街は既存市街地の外側にできる■■街の歴史物語の主要キャストは地方銀行と百貨店■■旧市街は本来の住まう街として再生する図1 連載を貫く1つのテーマと4つの前提街の発展史から将来の街づくりを考えること街の交通史観筆者は「交通史観」と呼んでいるが、街の発展史の土台には交通手段の歴史がある。ここで交通手段とは徒歩・舟運、鉄道そして自動車である。中心地の場所、町割から風景までその時代で支配的な交通手段の影響を受けている。こうしたある種の法則を27都市にわたって示してきた。街の歴史とはいえ書き出しは明治時代なので具体的には街の近現代史だ。明治の街は城下町、港町、門前町など街の発祥形態を引き継い連載30回の節目にこれまで紹介した27都市の歴史についてまとめてみる。筆者がこの論点で講演するとき必ず述べるのが、全体を貫く1つのテーマと4つの前提についてである(図1)。テーマは目的と言い換えてもよい。具体的には「街の構造を発展史的に把握し将来の街づくりを考えること」である。テーマを支える前提が4つあり、中でも重要なのが、「街の中心はときの交通手段に伴って移転する」だ。でいる。徒歩や舟運に適応しており、旧街道と河川が都市軸を形成する。河川から引き込まれた運河が縦横に張り巡らされ、その脇に道が通る。今の感覚でいえば車道と歩道が分かれた幹線道路のようなものだ。この時代の街の中心は川湊または海の港の後背地、運河と街道が交わったところにあった。JRの前身となる幹線鉄道が明治半ばに開通し、これが街の構造を変える最初の動因となるが、駅前に街の中心が移るのはもう少し先の話だ。明治期は駅構内の入込運河で舟運に乗り換えるハイブリッド交通だった。地域にもよるが、人の流れはともかく物の流れにおいて舟運の現役時代は長かった。街の構造を掴むのに地域の鉄道史は欠かせない。敷設時点で駅は街の“郊外”にある。幹線鉄道の敷設ルートから当時の街の外縁がうかがえる。街の外縁を辿る幹線鉄道に対し、市街電車は街の中心軸を貫く。先月紹介した東京馬車鉄道は東海道・奥州街道を辿って浅草と新橋を結んでいた。新橋駅は当時の東海道線の発着点である。街の外縁にあるターミナル駅をつなぐのも市街電車の役目だ。東京馬車鉄道の場合、東北方面のターミナルの上野駅も発着点だった。何らかの都合で市街電車がメインストリートと別のルートを取った場合、市街電車にあわせてメインストリートが移ることがある。連載では鹿児島、小田原、熊本の例がある。いずれも「電車通り」が新たなメインストリートになった。街の辺境革命論第2の前提が「新しい街は既存市街地の外側にできる」である。筆者は「街の辺境革命論」と呼んでいる。街が新しくなる経緯には、既存の街に新しい街が 34 ファイナンス 2022 Aug.路線価でひもとく街の歴史

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