ファイナンス 2022年7月号 No.680
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ファイナンス 2022 Jul. 79沖縄地区税関総務部総務課長仲里 昌章奉使琉球図巻・入境登岸(那覇港)沖縄県立博物館蔵・廃藩置県19世紀に入ってからは西洋諸国の異国船が来航し、日本開国の前年の1853年にはペリー提督が那覇に上陸しました。1879年(明治12年)の廃藩置県により、那覇に県庁が置かれたことにより、首里に代わって沖縄県の政治・経済・文化の中心地となりました。同年、泊、久米、久茂地を編入し、近代那覇の行政区域の基盤ができ、1896年(明治29年)特別区制の施行により、那覇区となりました。1903年(明治36年)土地整理事業の完了にともなって真和志より牧志、小禄より垣花を編入し、さらに1914年(大正3年)には、壺屋を真和志村から、そして新たに、埋立てた旭町を加え、また町名を設定して24ケ町となりました。・市制施行-沖縄戦1921年(大正10年)5月20日、特別区制が廃され、他府県同様の一般市制が施行され、那覇は、市となりました。こうして沖縄県の県都として栄えた那覇市は、太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)10月10日の大空襲で市域の90%を焼失、さらに続く沖縄戦によって完全な焦土となり、多年にわたって築いた町は灰じんに帰しました。・米軍占領と復興〜ゼロからの出発〜戦後那覇は、米軍の全面占領下にあり、立入禁止区域となっていましたが、1945年(昭和20年)11月産業復興の名目で陶器製造産業先遣隊が壺屋一帯に入域し、1946年(昭和21年)1月3日付けで糸満地区管内壺屋区役所が設置され、那覇復興が始まりました。その後民政府などの中央機関が漸次那覇に移転し、1949年(昭和24年)12月9日、米軍政長官シーツ少将は、那覇を沖縄の首都とすると発表。その後、 1.はじめに(那覇市の名称)那覇は「ナハ」と読み「ナーファ」、「ナファ」から転訛したものです。ナハの語源について、伊波普猷(沖縄学の創始者)はナバ(漁場)から発生したと説いています。読み方については、1934(昭和9)年3月、日本放送用語審査委員会でナハ(NAHA)と決定され、これにより従来一般にナハ、ナファ、ナバなどと呼称されていたものが統一されました。昭和の時代に“ナハ・ナハ・ナハ”というフレーズが確か流行っていましたね。(那覇市のあゆみ)・琉球王朝時代〜海外貿易の窓口〜昔の那覇は、那覇川(現国場川)、安里川の注ぐ湾に浮かぶ島“浮島”でした。1451年尚金福が長虹堤を築いて那覇と崇元寺の前を結ぶに至って首里との交通の便が開け、泊や那覇港の繁栄につれて若狭町、泉崎を含めるようになり、那覇四町(西、東、若狭町、泉崎)と呼ばれる町を形成するようになりました。「唐、南蛮寄り合う那覇泊」と歌われた那覇は、海外貿易の窓口として発展し、商都としてにぎわいをみせました。めんそーれ!県都那覇市へ 那覇

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