ファイナンス 2022年7月号 No.680
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堺 ファイナンス 2022 Jul. 75(3)5年間だけ存在した「堺幕府」(4)織田信長と堺(5)戦火による衰退(6)天災等による衰退(7)工業港として再生「環濠都市」堺は、堺商人「会合衆(えごうしゅう)」によって運営され、高い自衛力と経済力を持った自治都市として繁栄しました。その繁栄ぶりはイエズス会の宣教師ルイス・フロイスによって「東洋のベェネツィア」とヨーロッパに紹介されました。1527(大永7)年、室町幕府は内紛により第12代将軍・足利義晴(あしかがよしはる)が京から追放されると、官領の細川晴元(ほそかわはるもと)や軍司令の三好元長(みよしもとなが)は弟の足利義維(あしかがよしつな)を傀儡(かいらい)とする新政権を樹立しました。このとき本拠地に選ばれたのが堺です。堺幕府は晴元と元長の対立により崩壊しますが、5年間だけ追放中の将軍に代わって幕政を担いました。環濠都市として繁栄した堺の財力に目をつけた織田信長は、1568(永禄11)年、堺に対し軍資金二万貫(現在の約2億円)を要求しました。堺商人「会合衆」は、その要求を一度は拒否し抵抗しましたが、信長の武力の前に屈服し、自治権を奪われました。戦国時代でも自治を貫いた都市ですが、1614(慶長18)年からはじまった「大坂の陣」に巻き込まれて焼失しました。また1639(寛永16)年からの鎖国政策と1704(宝永元)年の大和川の付け替えによる土砂堆積で港の機能は低下し、最盛期のような経済力は失われてしまいました。明治以降、堺は、白浜青松の海辺を生かした近代的なアーバンリゾート地として発展しました。1873(明治6)年には浜寺公園が開設され、幾つもの料理旅館や豪商の別荘が並び、1879(明治12)年には大浜公園が開設され、海水浴や海辺のレジャーが普及しました。その後も大阪・なんばと堺(港前)をつなぐ鉄道の開通、本格的な水族館の開設、少女歌劇場の設立など、関西圏の身近なリゾート地として人気を集めました。また、1922(大正11)年には、日本最初の民間航空輸送が大浜海岸を利用して始まり、水上機や飛行艇が四国・九州へ運航し、1939(昭和14)年の戦時国策で閉鎖されるまで定期的に運行し、遊覧飛行も行われました。リゾート地として繁栄した堺ですが、1934(昭和9)年の室戸台風で海辺の多くの施設が手痛い被害を受け、続く戦時体制によりリゾート施設が次々に閉鎖されました。1945(昭和20)年太平洋戦争末期にはアメリカ軍の5度にわたる空襲で、港と共に市街地の大半が焼け野原となり、明治から大正にかけて繁栄したアーバンリゾート地としての面影は失われました。1958(昭和33)年に大阪府は産業構造の高度化と経済発展を図るため、堺泉北の沿海部に着目し、ここに360ヘクタールの埋立地の造成を含む「堺臨海工業地帯の造成及び譲渡の基本計画」を決定しました。1958(昭和33)年から海岸一帯で、沖合6kmまでの埋立地が造成され、広大な堺・泉北臨海工業地帯に鉄鋼・電力・ガス・造船・石油精製・化学工場などを立地しました。コンビナートの工場専用岸壁も造成され、10~20万トン級のタンカーや鉄鉱積載船などが着岸し、堺港は、重化学工業港として生まれ変わりました。同庁舎内にあります。管轄区域は、大阪府のうち堺市、高石市、泉大津市、和泉市、富田林市、河内長野市、松原市、羽曳野市、藤井寺市、大阪狭山市、南河内郡(太子町、河南町、千早赤阪村)の10市1郡となっています。3.堺税関支署堺税関支署は、大阪府堺市西区石津西町の堺港湾合

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