ファイナンス 2022年7月号 No.680
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72 ファイナンス 2022 Jul.との間の摩擦については、相手国からの輸入拡大の努力など現実的対応により一定の成果を挙げている。全く溝を埋めることができなかったのは、自給自足圏を追求する独伊との意見対立であった。当時既に独伊とは三国防共協定によって、防共の理念を共有していたにもかかわらずであった。日本の外交政策が英米側から独伊側に完全に軸足を移したのは、第二次大戦開戦後の1940年日独伊三国軍事同盟締結の時点であった。「戦前日本の安全保障」(川田稔著、講談社現代新書)も興味深い本であった。同書によれば、山縣有朋は国際秩序をパワーポリティクスの世界と認識し、米国の圧力で日英同盟の更新が困難になると日露同盟を画策したが、ロシア革命により構想は頓挫した。原敬も山縣同様パワーポリティクスで国際秩序を理解していた。彼は、「将来米国は『世界の牛耳』を取るようになるだろう。したがって今後『日米の関係』にはことに注意を払わなければならない。『日米関係の親密なると否と』は、日本の『将来の運命』にかかわる」、「『一朝米国と事ある』場合は、英仏露など欧州諸国は頼むに足りない」と考えていた。彼の安全保障構想は、{必要最小限の戦力の保持}+{米英との協調}というものだった。その上で原は、非対称的な国力差から「米国のなすがまま」になることを抑制する方策を模索しており、同書は、原は米国牽制の観点から国際連盟が集団的安全保障システムとして機能することを期待していたのではないかとする。浜口雄幸は、原同様、対米英関係を悪化させれば日本は国際的な窮地に立つとの認識から、対米英協調と日中親善を外交の基本にした。ロンドン海軍軍縮条約を、「国際的平和親善」すなわちパワーポリティクスを超越する新しい国際秩序に向けての第一歩として極めて重要視するとともに、国際連盟を日本の長期発展の必須条件である東アジア平和維持のための国際機関として位置付けていた。そして連盟による集団的安全保障体制の不十分さを、中国に関する9ヵ国条約など多層的多重的条約網で補完しようとした。同書の著者は、9ヵ国条約が現代のNATOのような域外の仮想敵に対する集団安全保障システムと異なり、関係国が中国の主権の尊重、門戸開放、機会均等を約することにより、特定地域内の安全を相互に保障しあうシステムであるという点に注目する。そして、浜口の国際連盟を9ヵ国条約で補完する構想について、今後の東アジア太平洋地域の安全保障を考察する上で示唆するところ多いとする。傾聴に値する指摘ではあるが、昨今の国際情勢を見ると、軍事同盟でない多国間条約の実効性の確保は難事だと思う。ワシントン軍縮会議から100年、ベルリンの壁崩壊から30余年を経て、国際秩序はなおパワーポリティクスの世界だと考えざるをえない。これらの本により、戦前日本において、外交や安全保障に関わる政官界や軍部の実力者たちは、総じて冷静かつ現実的に国際情勢を認識していて、各人なりの大局観を有していたことを知った。他方において昭和12年以降我が国は、支那事変の解決ができず、政治や社会が内向きに煮詰まっていく過程で、冷静な現実主義が薄れて建前主義的なものが強くなっていった感がある。言い換えれば、政党や役所の立場上のポジショントークだった主張が、いつの間にか譲れない一線になってしまったかのような気がするのだ。政治体制が求心力を失うと、国民感情や組織内部の批判に過度に敏感になってしまい、国際秩序や経済政策のリアリズムから目をそむけて、それぞれの組織の立場上の建前論に、頑なにこだわるようになっていくように思う。他方、求心力が強くなり過ぎれば専制の弊害が生ずるのだが、戦前昭和以降現代にいたるまでの日本政治では、どちらの弊害が大きかったであろうか。永野護は、昭和20年9月の広島での講演の速記録「敗戦真相記」(バジリコ刊)の中で、日本が勝ち目のない不幸な戦争に進んでいったことについて、日本本位の自給自足主義という胚子を諸事情が戦争にまで育て上げたと指摘している。そしてその諸事情として、日本の指導者がドイツの物真似をしたこと、軍部が己を知らず敵を知らなかったこと、天下の世論を尊重する政治が行われなかったことを挙げ、最も不幸だったのは、これら諸事情が、日本有史以来の「大人物の端境期」に起こったということだと説いている。永野護は有名な永野六兄弟の長兄で、渋沢栄一の秘書を長く務め、財界の有力者となり、政治家に転じて戦後は岸内閣で運輸相となった。弟たちも皆政財界で成功した。戦前昭和の時代に政治家・軍部に大人物が得られなかったとの永野の指摘については、前述の原敬や浜口雄幸などの安全保障に関する深い洞察を見るにつけ、同感の思いを深くする。しかして、翻って我が国史を

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