ファイナンス 2022年7月号 No.680
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38 ファイナンス 2022 Jul.明治23年(1890)に建てられ大正12年(1923)に関東大震災で倒壊するまで有数の東京名所だった。明治15年(1882)、第2回勧業博の展示館を転用し国立博物館が開館した。博物館には、後の上野動物園となる付属動物園が併設されていた。その他、戦前まで東京府美術館や東京科学博物館が園内に整備された。繁華街は南側の黒門口から上野広小路にかけて広がっていた。当地の一番店が松坂屋上野店である。上野広小路にあった呉服店「松坂屋」を明和5年(1768)に名古屋の伊藤屋が買収。それを機に改称した「いとう松坂屋」が発端である。明治40年(1907)、ショーケースで陳列する百貨店形式の店に改装。大正6年(1917)、幕末以来の土蔵造り店舗の北側にあった洋館3店舗を整理し4階建の新本館に建て替えた。大正も半ばになると上野と浅草との地価の差が少しずつ縮まってきた。大正15年(1926)の大蔵省の調査によればこの年、上野広小路と浅草区茶屋町の1坪当たり賃貸価格が両者ともに80円で並んだ。街道と舟運の浅草から鉄道の上野へ、交通手段の重みづけの変化が背景になったというのが本連載の仮説だ。この間、上野駅の交通拠点としての価値が高まった。例えば大正14年(1925)、秋葉原・神田間が開通し山手線が環状運転を始めた。昭和2年(1927)にはわが国初めての地下鉄が浅草駅・上野駅間で開通した。現在の東京メトロ銀座線である。昭和4年(1929)、上野広小路の松坂屋は関東大震災で被災した店舗を再建。土蔵造店舗も整理し区画いっぱいに建てた本館は地上7階地下1階、延床面積25,000m2と全国屈指の大型店だった。後に地階売場が銀座線と直結された。一方、浅草にターミナル駅ができたのは昭和6年(1931)である。東武鉄道が今の浅草駅である浅草雷鉄道の時代と上野の発展浅草公園が大衆文化の殿堂なら、上野恩賜公園はわが国クラシック文化の源流といえる。開設4年目の明治10年(1877)に内国勧業博覧会の会場となった。今でいう展示会で、臥雲辰致のガラ紡などが出品された。勧業博の展示品を仕入れて販売する「勧工場」という業態が現れたことを考えれば見本市ともいえる。第2回、第3回も上野恩賜公園で開催された。門駅への延伸を果たす。駅ビルには百貨店「松屋浅草」が入った。駅では後発だが、ターミナル百貨店としては浅草が東京初である。延伸前は1つ手前の業平橋駅が「浅草駅」で東武鉄道のターミナルだった。現在のとうきょうスカイツリー駅で、明治35年(1902)に北千住駅から延伸開業。最初は吾妻橋駅といった。いったん閉鎖し、東武亀戸線を経由して今の両国駅に乗り入れるルートを取るも、両国駅の国有化に伴って撤退。明治43年(1910)に吾妻橋駅を再開し浅草駅と改称した経緯がある。有数の貨物駅でもあり、駅構内に運河を引き込み北十間川の舟運に連絡していた。東武鉄道が浅草に延伸を果たした2年後、上野に新たなターミナルができた。昭和8年(1933)、上野恩賜公園の地下に京成電鉄が京成上野駅を開業。当時は上野公園駅といい、地下道を渡って道路向かい側に駅舎があった。今のヨドバシカメラの場所である。上野の戦後史は闇市から始まる。アメ横はじめ新たな商業集積が駅前にできた。ビルでいえば3階建の高さの上野恩賜公園の法面に西郷会館含め3つの商業施設が張り付いている。ここ10年前後で建て替えられ新しくなったが、いずれも戦後まもなくの開業である。都の設置許可を得て民間が建てた上野恩賜公園の公園施設だ。昭和47年(1972)には松坂屋上野店に続く当地2店目の百貨店、京成百貨店上野店が開店した。現在は丸井になっている建物である。時代が下るにしたがって上野と浅草の差は開いていき、京成百貨店の開店の翌年、昭和48年(1973)で上野の最高路線価は浅草の約1.5倍となっていた。そ最高路線価地点でなくなった浅草戦後、上野の地価が浅草を上回り現在に至る。昭和34年(1959)の最高路線価は、雷門二丁目「舟和」の坪当たり69万2,500円に対し、上野広小路「東京堂靴店」は73万5,000円だった。日本橋や銀座以外で上野を上回る場所が表れたのも戦後の特徴だ。昭和34年、渋谷区上通り「峰岸ビル」(現在のQフロント)112万850円、新宿区角筈一丁目「洋菓子山和売場」(新宿駅東口)99万3,600円、池袋一丁目「明治屋」75万円の3地点が上野を上回っていた。3つとも山手線沿線で郊外電車のターミナルとなっている。

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