ファイナンス 2022年7月号 No.680
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卍卍卍卍凌雲閣跡卍国際劇場跡合羽橋道具街浅草駅六区奥(日州光街街道道)丸井(旧京成)旧京成上野駅元黒門町隅田川広小路松阪屋上野恩賜公園卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍 (出所)東京案内(明治40年刊、国立国会図書館「写真の中の明治・大正」)(出所)筆者作成卍卍東本願寺花やしき仏壇問屋街伝法院公会堂雷門広小路浅草寺北十間川浅草御蔵跡とうきょうスカイツリー駅(旧浅草駅)ファイナンス 2022 Jul. 37図1 市街図図2 浅草公園の図の半分は真の公園地とし、残りの半分は免税地として貸座敷、飲食店を許可し、その地代・家屋税を徴して公園入費に充てる」というものである。これが基本方針となり、戦前まで東京の都市公園は独立採算制の下で運営されていた。特に浅草公園の貢献度は高く、その公園使用料は他の公園の財源にもなっていた。一時期は使用料全体の8割を占めていたほどだ。浅草公園の整備にあたって新しく造成された土地もある。歓楽街で有名な「浅草六区」もその1つだ。明治16年(1883)、浅草寺西側の火除け地、通称「浅草田んぼ」が公園に加えられた。空き地を開削して水を張り、瓢箪池を拵えた。池の外側の土地を区画整理し、浅草寺観音堂の裏手の奥山という場所に元々あった見世物小屋を集めて歓楽街をつくった。その後、浅草公園は6つの“区”に分けられた。一区は狭義の浅草寺境内、二区は仲見世、三区は伝法院周辺、四区は瓢箪池を擁する庭園一帯。五区は現在の花やしきから観音堂裏手にかけて。六区が現在の六区ブロードウェイを縦軸とする歓楽街で、区割制が無くなっても「浅草六区」というエリア名が現代に残った。大通りの北半分は瓢箪池に面していた。瓢箪池は戦後に埋め立てられて現存しない。かつて瓢箪池があった区画には現在、ご当地ショップ「まるごとにっぽん」が入る東京楽天地浅草ビル、ウィンズ浅草が建っている。明治20年(1887)、今のROX-3Gの場所に常磐座ができた。後に「浅草オペラ」の発祥地と呼ばれる常磐座を嚆矢として六区に活動写真館や演芸場が集まってきた。明治36年(1903)には日本初の映画館「電気館」が開業。現在、跡地には名前が引き継がれた「浅草電気館ビル」が建つ。現代の六区のシンボルといえばエリア中心の五差路にある浅草演芸ホールである。都内4つの常設寄席の1つだ。造成当初にできたのは明治期のショッピングセンター、勧工場の開進館だった。その後、映画館「三友館」となり、戦後のフランス座、東洋劇場となる。浅草演芸ホールが開場するのは昭和39年(1964)である。五区の花やしき、四区の浅草水族館など六区以外にも浅草公園内にレクリエーション施設が多々あった。六区の外側になるが、大通りの北のつきあたりにはその高さにちなみ「浅草十二階」と呼ばれた凌雲閣があった。公園地の外側なのは高さ制限の都合による。旧浅草公園隅田公園

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