ファイナンス 2022年7月号 No.680
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第29回 「東京都浅草・上野」275D510C240E295E540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D275D270D2,350C2,390C610C550C600C540C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D浅草公園から水辺のまちづくりへ 36 ファイナンス 2022 Jul.川と街道と浅草繁華街としての歴史は浅草が古い。街道に沿った隣町の蔵前に幕府の米蔵「浅草御蔵」があったのが大きい。年貢米が浅草御蔵に収納されると預かり証(米切手)が発行され、幕府役人の給料となった。都市住民が現物米でもらっても仕方ないので、米切手を換金する必要があった。換金を業にしたのが「札差」という業種である。実際のところ役人は米切手の支給を待たず札差から生活費を前借りしていた。つまり札差は消費者金融業でもあった。江戸の富裕層の典型である。浅草は札差や商家の旦那衆の社交場として賑わった。旦那衆といえば江戸の商工業は街道に沿って発展している。日本橋を起点とする日光街道は本町通から浅草橋を渡って蔵前に至る。業種の変遷はあるが現代も街道沿いに問屋街が形成されている。本町の薬品、横山町・馬喰町の衣料。浅草橋から蔵前、駒形にかけての人形や玩具などだ。東北本線のターミナルの上野駅。井沢八郎「あゝ上野駅」ではないが、東北生まれの筆者にとって特別な駅であるには違いない。他方、奥州街道(日光街道)は浅草である。日光街道を並走する東武鉄道は浅草駅がターミナルだ。浅草と上野、両方とも東北方面の玄関口である。浅草寺と浅草公園、寛永寺と上野恩賜公園という具合に、シンボルとなる寺と公園がある点も共通している。どちらも門前の「広小路」を中心に街が発展した。大通りから横丁に入ると、道端に席がはみ出した大衆酒場が独特の雰囲気を醸している。江戸が終わっても日光街道の地位に変わりはなかった。明治15年(1882)、東京初の市内鉄道「東京馬車鉄道」が開通した。新橋から日本橋を経由し浅草に至る旧街道沿いのルートと、日本橋から分岐し上野経由で浅草に至るルートからなるP字型の路線網だった。上野は翌年に東北本線上野駅の開業を控えていた。駅は寛永寺の脇寺群があった場所にできた。当時の上野は市街地の辺縁で、日光街道からみれば西に外れた場所だった。明治15年の東京府統計書によれば、戦前15区の最高地価のうち最も高かったのは日本橋区で場所は按針町だった。按針町は今の中央通を横に入った按針通の辺りにあり百坪平均地価は2,116.87円だった。以下、京橋区南伝馬町三丁目(現在の京橋)、神田区須田町と続き、4番目が浅草区茶屋町で789.31円。雷門の前である。1つ置いて6番目が下谷区上野元黒門町で422.37円。上野恩賜公園の南端の広場と不忍池の間の住所である。馬車鉄道のルートが当時の一等地を結んでいることがわかる。また、地価でみれば浅草は上野に2倍弱の差をつけていた。浅草六区と大衆文化浅草の街の歴史は浅草公園の歴史でもある。浅草公園は、明治6年(1873)の太政官布達を経緯とする都市公園の第1期生である。布達によって古来の景勝地かつ人が集まる遊覧地が選ばれ、「万人偕楽ノ地」たる公園に指定された。東京では浅草、上野、芝、深川、飛鳥山の5つあり、このうち4つは浅草寺、寛永寺、増上寺、富岡八幡神社のそれぞれ境内地だった。浅草公園の範囲は図2の通りだが、浅草寺の境内のみならずその外縁の広い部分が公園地に指定されていた。外縁部から得られる地代家賃を都市公園の維持管理費の財源にする目論見があった。公園を所管する当時の東京府は、公園経営にあたって東京商工会議所の前身の営繕会議所から提言を受けていた。「公園地域路線価でひもとく街の歴史

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