ファイナンス 2022年6月号 No.679
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(出所)地理院地図vectorに筆者が加筆して作成図3 広域図 58 ファイナンス 2022 Jun.向かい側、「大和百貨店前古町七番町通」に移転する。大和百貨店の本店は金沢で、最高路線価地点の店は新潟店だ。前身は昭和12年(1937)に創業した萬代百貨店である。昭和14年(1939)、金沢市に本店を構える丸越百貨店と合併し丸越新潟店となった。昭和18年(1943)、本社が同じく金沢市本店の宮市大丸と合併し大和百貨店となったため大和新潟店となった。大和百貨店の積年のライバルが、交差点の対角にあった三越だった。こちらは明治40年(1907)に創業した小林呉服店を源流とする。萬代百貨店と同じ年に小林百貨店を開店した。大和を凌ぐ業況だったが、昭和30年(1955)の新潟大火を機に失速。増床等で対抗したが及ばず、後述する万代エリアの脅威もあり昭和51年(1976)、仙台が本店の藤崎百貨店と提携した。昭和53年(1978)には三越から資本を調達。役員はじめ人材を迎えるなどして再建を図る。2年後の昭和55年(1980)には店名を「新潟三越百貨店」に変えた。2大百貨店につづき戦後も古町界隈に大型店が集まった。昭和35年(1960)、長岡市が本店の丸大が本町通六番町に出店。昭和39年(1964)に百貨店となる。昭和44年(1969)、古町通に緑屋、東堀通に長崎屋が進出。その翌年、長崎屋の隣に長岡市のイチムラ百貨店が出店した。昭和51年(1976)、地方都市には珍しい本格的な地下街の西堀ローサがオープン。西堀通の地下で大和や三越が連結した。昭和を通じて新潟随一の中心地だった古町界隈だが、昭和50年代以降集客に陰りが差してきた。信濃川対岸の埋め立て地、万代エリアの台頭があった。小林百貨店が三越傘下に入ったのもその対抗策のひとつだった。新潟3店目の百貨店の丸大は昭和52年(1977)にイトーヨーカドーと業務提携、翌年増床し新潟丸大となった。撤退を選択した店もあり、昭和55年(1980)にイチムラ百貨店、その翌年に長崎屋が閉店した。平成2年(1990)に緑屋が閉店。新潟丸大は百貨店事業から撤退しイトーヨーカドー丸大となった。信濃川の対岸の万代エリアの開発平成元年(1989)、昭和が終わると同時に最高路線価地点が古町通から「掘川ビル前新潟駅前通り」に移転した。舟運拠点から鉄道拠点に街の中心が移った点で他の地方都市と同じパターンだが、新潟に関していえばバスターミナルと再開発の影響も大きかった。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は川端康成「雪国」の書き出しだが、群馬県境の清水トンネルが開通したのは昭和6年(1931)で、それまでは長野を経由する信越本線が東京と新潟を結ぶ鉄道のメインルートだった。当初、官営の信越本線は直江津駅が北端で、そこから先は民間資本の北越鉄道が整備することになった。工事は難渋したが、明治32年(1899)に信濃川対岸の沼垂駅まで開通した。新潟駅の開業はそれから5年後の明治37年(1904)である。直江津から先、信越本線は長岡、三条を経由し、新津で新発田方面と新潟方面にY字に分岐する。新潟方面は沼垂駅まで北上し、Jターンする形で新潟駅に終着した。初代の新潟駅は行き止まり駅(頭端駅)だった。万代エリアが埋め立てられる前、信濃川の川幅は今の3倍広かった。新潟の市街地からみれば当時の新潟駅は大河を隔てた向こう岸にあり、駅周辺は閑散としていた。現代の感覚でいえば空港のような立地ではなかったか。万代エリアの造成工事は3代目萬代橋が完成した昭和4年(1929)に着工。はじめは新潟交通の本社や整備工場その他諸々の施設があった。地盤沈下の問題もあって用途転換を迫られたこともあり商業開発が進んだ。バスターミナルと百貨店、GMSを核とした一帯は万代シテイと名付けられた。昭和48年(1973)に万代シテイバスセンタービルとダイエー新潟

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