ファイナンス 2022年6月号 No.679
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第28回 「新潟県新潟市」275D510C240E295E540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D275D270D2,350C2,390C610C550C600C540C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D(出所)Google Earth図1 旧新潟税関(新潟市歴史博物館みなとぴあ)ラグーン(潟)に浮かぶ新潟島の 運河網の記憶 56 ファイナンス 2022 Jun.近代の経済中心地の本町通七番町イザベラ・バードは新潟を次のように評している。「旧市街は、私が今まで見た町の中で最も整然として清潔であり、最も居心地の良さそうな町である。…(中略)…運河に沿って並木道があり、りっぱな公園もあり、街路は清潔で絵のように美しいので、町は実に魅力的である」(『日本奥地紀行』高橋健吉訳、平凡社)。開港に伴い街を拡大しているので、ここでいう旧市街とはそれ以前からあった区画と思われる。現代でいえば南辺が白山公園、西辺が西堀通、東辺を上かみ大おお川かわ前まえ通どおりとするグリッドだ。江戸期は上大川前通が信濃川の河岸だった。グリッドの縦軸は堀2筋と道3筋の5筋で信濃川と阿賀野川でできたラグーン(潟)の砂州の先の新潟島。運河が縦横に走り舟が行き交う風景は、さだめしヴェネタ潟上に浮かぶヴェネツィア島のようだったろう。舟運と海運が交わる地の利を生かし、江戸期はわが国西回り航路の拠点として繁栄を謳歌した。幕末、安政5年(1858)年の五か国条約で新潟港は横浜(神奈川)、神戸(兵庫)、長崎、函館(箱館)に並ぶ開港地になった。実際の開港は兵庫開港問題で慶応3年(1867)となった神戸のさらに後で、元号は明治に移っていた。明治2年(1869)に運上所が竣工。明治6年(1873)に新潟税関に改称され、昭和41年(1966)まで現役の庁舎だった。博物館を伴った史跡に改装され、現存する最古の税関庁舎である(図1)。横浜や神戸、長崎のような外国人居留地は整備されず、外国人は市街に紛れて住んでいた。ただしイギリスの旅行家、イザベラ・バードによれば、彼女が新潟を訪れた明治11年(1878)で既に外国船の寄港はなく、常住する外国人は18人程だったようだ。構成される。西から寺町堀(現・西堀通)、古町通、片原堀(現・東堀通)、本町通そして上大川前通である。イザベラ・バードも書いているが、堀といっても事実上の道路、正確には車道で、両脇の小径が歩道にあたる。横軸も堀と道で構成されていた。新津屋堀、新堀、広小路堀など堀は5本。そして横軸の道を新潟では小路という。萬代橋が架けられてからは、橋につづく柾まさ谷や小路がメインストリートになった。明治19年(1886)年に架けられた初代萬代橋は現在の橋の一筋南にあった。南新堀が埋め立てられ、橋と柾谷小路を結ぶ道となった。現代に連なる街の原型は明暦元年(1655)年に整備された。開港を機に街が他門川の外に拡がり、下大川前通が新たな岸壁となった。岸壁には長岡航路はじめ舟運の発着場が集まっていた。近代新潟の中心は本町通七番町である。新潟県統計書には大正3年(1914)から大正11年(1922)まで宅地の最高地価が記載されているが、この間で最も高かった地名が本町通七番町だ。今も本町通と柾谷小路が交わる本町交差点に道路元標があり、7、8、17号線など合計8国道の起終点となっている。交差点の北西角には第四北越銀行の本店がある。令和3年に第四路線価でひもとく街の歴史

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