ファイナンス 2022年5月号 No.678
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須坂長野東IC図2 広域図旧選手村今井団地アクアウィング’98~長崎屋新長野店→MEGAドンキホーテ長野店エムウェーブ五輪大橋ホワイトリングイオンモール予定地五輪会場等商業施設図1の範囲’’'98~ダイエーハイパーマート長野若里店→ケーズタウン若里ビッグハット長野オリンピックスタジアム(出所)地理院地図vectorに筆者が加筆して作成’ 50 ファイナンス 2022 May.座屋」である。3年後に「ながの丸善百貨店」と改称する。昭和41年(1966)に駅前に転じた後は日本勧業銀行が移ってきた。南西角にはダイエー長野店が昭和51年(1976)に出店。商業地としては新興の駅前エリアを尻目に百貨店と覇を競っていた。他方、元々の地域一番店だった丸光百貨店は場所を変えずに増築し昭和41年(1966)に8階建となった。当初こそ堅調だったものの、ダイエーはじめ大手総合店の相次ぐ出店や駅前エリアの発展に圧され業績は下降傾向に転じる。そこで大手百貨店との提携を模索し、当初三越、次いでそごうの支援を仰いだ。昭和57年(1982)にそごうの資本を導入し、翌年「丸光そごう」に改称。昭和62年(1987)長野駅前に近づく街の賑わい昭和45年(1970)、新田町交差点の南側の表参道に長崎屋が開店。昭和50年(1975)には最高路線価地点が「大字南長野字石堂町並台東食品前中央通り」に移った。10年後の昭和60年(1985)、長野駅に駅ビル「MIDORI」が開店し、その翌年の最高路線価が「大字南長野字石堂町東沖長門屋前長野駅前通り」となった。いよいよ駅前の時代になった。次の10年で街は郊外に拡散し、いずれにせよ新田町交差点界隈は下り坂の経緯を歩むのだが、それに対する表参道に開店した大型4店の戦略は異なっていた。まず2大百貨店についていえば、早々に見切りをつけ駅前に活路を見出したのがながの丸善百貨店である。丸光の後塵を拝していた当店は、親密先の東急百貨店の後押しもあって昭和41年(1966)に新店舗を駅前に新築し移転。あわせて東急百貨店と提携した。その後昭和50年(1975)には10,429m2に増築。昭和61年(1986)には新館も新築し16,875m2となる。売上も順調に伸ばし地域一番店の地位を固めていった。には創業者含む丸光時代の役員が退任し「長野そごう」になった。平成元年(1989)には店舗を改装。再建を期して高級路線に舵を切った。郊外化の背景には道路インフラの充実があった。高速道路の整備が前倒しで進められ、平成8年(1996)には上信越自動車道の小諸IC-更埴JCT間が暫定二車線で開通し東京と長野が繋がった。長野市街と須坂長野東ICを結ぶ道路が拡幅され、点在する五輪会場を結ぶ道路が新設された。例えば五輪大橋、三才大豆島中御所線から長野南バイパスに至る路線である。表参道にあった長崎屋とダイエーの戦略は郊外出店である。両方とも平成10年(1998)に1万m2クラスの郊外大型店を出した。ダイエーハイパーマート長長野五輪が牽引した郊外開発90年代の街の変化において、平成3年(1991)に開催決定した1998年冬季五輪大会の影響が大きかった。駅前エリアの発展についていえば新幹線の開業だ。軽井沢から先の北陸新幹線が、在来線を活用するミニ新幹線からフル規格に変更された。開業は平成9年(1997)でその前年には駅舎が新しくなった。当時は長野駅が終点で長野新幹線と呼ばれた。

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