ファイナンス 2022年5月号 No.678
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第27回 「長野県長野市」275D510C240E295E540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D275D270D2,350C2,390C610C550C600C540C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D 48 ファイナンス 2022 May.1周回って門前町から始まる街並み再生坂の上の大門町「遠くとも一度は詣れ善光寺」。全国各地から巡礼者が集い、宿坊が牽引するかたちで門前町に関連産業が発展した。中世由来の“町”は住所地であると同時に商工業を生業にする住民の自治組織でもある。長野の場合、大門町、後ごちょう町、横町、北之門町、東町、西町、岩石町、桜小路の8つが有力で「八町」と呼ばれた。長野市は善光寺の門前町である。善光寺といえば4月3日に御開帳が始まった。数え年7年おき(満6年おき)に「前まえ立だち本尊」が公開される祭儀だ。今回は新型コロナウイルス感染症の影響で1年繰り延べられ、密集を避けるため通常より1か月長い6月29日までの開催となった。前立本尊とは本来の本尊を模した謁見用の像、一言でいえばレプリカである。御本尊の「一いっ光こう三さん尊ぞん阿あ弥み陀だ如にょ来らい」は秘仏とされ誰の目にも触れることがない。毎日正午、本堂内々陣の瑠る璃り檀だんの戸帳が読経とともに上げられるが、その奥に見えるのは御本尊ではなく、御本尊が収められた厨ず子しである。善光寺は無宗派の単立寺院である。伝承によれば御本尊がインドから朝鮮半島を経由して来日したのは聖徳太子の治世より前の西暦552年。わが国最古の仏像と言われる。崇仏論争のあおりで長野に移され、その翌々年の642年に善光寺本堂が創建された。善光寺の名称は御本尊を誘致した信濃国国司の従者、本田善よし光みつに由来する。無宗派なのは日本仏教が各宗派に枝分かれする以前の創建だからである。もっとも運営は天台宗の寺院「大勧進」、浄土宗の尼僧寺院「大本願」による。資金調達と発起人を意味する役職名が寺の名前となった。各寺の住職(大勧進貫主、大本願上人)が善光寺の住職を兼任している。八町を中心とする門前町が「長野町」である。合併を経て長野市域は拡大したが、古来の中心部は大字長野の地名で残っている。長野町は北国街道の宿場町でもあった。本陣が置かれたのは大門町だ。大蔵省による大正15年(1926)の土地賃貸価格調査で大門町の賃貸価格が最も高かったことから、少なくとも大正期までは大門町が長野町の中心だったとうかがえる。大門町には八十二銀行の前身、第十九国立銀行の支店があった。本店は上田市で長野町には明治12年(1879)に進出。当初は西ノ門町にあった。明治30年(1897)第十九銀行に改称後、大正13年(1924)に現在地に移転した。今の八十二銀行大門町支店である。六十三銀行と合併し八十二銀行になったのは昭和6年(1931)だ。建物は平成9年(1997)に建て替えられたが外観は大正建築の意匠を継承している(図3)。大門町にはみずほ銀行の前身、安田銀行の支店もあった。由来を辿ると地元で創業した信濃銀行の本店に遡る。明治22年(1889)栄町で開業。西町を経て明治35年(1902)に大門町の新店舗に移転した。安田銀行に吸収されたのは大正12年(1923)である。大門町界隈には明治32年(1899)に創業した長野商業銀行もあった。後に六十三銀行横町支店となった。後町は東後町と西後町に分かれ、西後町には八十二ふもとの街の権堂エリア善光寺を含め旧門前町は小高い丘にある。表参道の大門町から後町にかけてがひと目でわかる坂道で、坂のふもとの後町とその脇の権堂町が大門町の次世代の中心地となった。そもそも長野の街は、その中心が善光寺門前から表参道に沿って南下する歴史を辿る。引力源は明治21年(1888)開業の旧国鉄長野駅だ。路線価でひもとく街の歴史

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