ファイナンス 2022年5月号 No.678
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2明治・大正の通り抜け江戸時代、旧藤堂藩蔵屋敷で里桜を育成しており、造幣局は敷地と共にその桜を受け継いだと言われています。通り抜け通路は当初約1kmありましたが、明治31年に約560mに短縮。明治42年時点で18品種287本、品種は一重の「芝しば山やま」が半数を占めていました。3昭和・平成の通り抜け第2次世界大戦中の昭和17年には空襲警報発令により通り抜けは開催期間途中で中止され、また、昭和20年6月の大空襲では約500本中300本の桜が焼失しました。その後復活に向けた努力が行われ、昭和22年に再開。順次桜樹の補充も行われ、昭和26年に1桜の通り抜けのはじまり今や造幣局の代名詞の一つともなった「桜の通り抜け」。明治16年、時の遠藤謹助造幣局長の「市民とともに楽しもうではないか」との提案により構内の桜が一般開放されたのが始まりで、令和5年には140周年を迎えます。ここでは、その略史と通り抜けを支える現役職員の日々の奮闘についてご紹介します。満開の桜でにぎわう桜の通り抜け通路(令和4年)大正時代の桜の通り抜け造幣局理事長 山名 規雄/造幣局広報官 福本 周五 32 ファイナンス 2022 May.浪速の春を飾る風物詩として、人々に愛されている造幣局の桜の通り抜け。令和2年、3年は新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から中止となりましたが、今年は事前申込制とし、入場者数の上限を設けるなど新型コロナウイルス感染防止対策を徹底した上で3年ぶりに開催し、令和になって初めての開催となりました。令和4年4月13日から19日までの7日間、造幣局構内旧淀川沿いの全長約560mの通路を解放し、多くの方に楽しんでいただきました。現在、造幣局にある桜は、138品種335本あり、関かん山ざん、松しょう月げつ、普ふ賢げん象ぞう、楊よう貴き妃ひなどの八重桜が主(大半は遅咲きの八重桜)で、大おお手て毬まり、小こ手で毬まりなど、他ではめったに見られない珍種の桜も見ることができます。大正に入ると来場者も増え、同6年には戦前最高の約70万人を集めました。当時は重工業の発展期で、煤煙で桜が枯死する事態も起こっています。「芝山」が半減し、一重八重の「御みくるまがえし車返」が主流を占めるようになりましたが、その後これも激減するなど、品種の変遷が激しかったのがこの時代です。大気汚染に弱い桜樹の維持管理のために外部専門家の手を借りるなど、多大な努力を払っていました。春の風物詩 桜の通り抜け

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