ファイナンス 2022年4月号 No.677
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国体道路旧丸井三津輪跡小網屋跡常磐跡高島屋跡京成跡⛩五十跡西武跡関東跡卍卍卍⛩卍卍卍卍卍⛩南門常陽土浦城大手門勧銀跡貯蓄跡中城町田宿町旧三和三菱UFJ昭和10年埋め立て保立本店農商跡仲町筑波本町本陣跡桜橋跡昭和34年の最高路線価祇園町丸彦家具店跡八間道路桜町新市街昭和42年埋め立て川口川ヨーカ堂跡モール505川口町西友跡山本電気商会跡ウララ太陽跡日本信託跡水戸街道旧水路東京(出所)筆者作成図中の“跡”は現存しないもの。“旧”は建物が現存あるいは同じ場所で営業を継続しているものをいう図1 市街図工銀行から昭和19年(1944)に転じた日本勧業銀行の支店があった。昭和27年(1952)に撤退し、跡地に土浦信金の本店が来た。桜橋の先の仲町には土浦農商銀行があった。明治29年(1896)の設立で、大正14年(1925)に常磐銀行に買収された。川口河岸には常磐銀行の支店と土浦三み津つ輪わ銀行があった。常磐銀行は大正6年(1917)築の近代建築で、統合後も平成15年(2003)まで建物が残っていた。土浦三津輪銀行は代々土浦藩主を務めていた土屋家が設立した銀行で明治34年(1901)に開業。昭和14年(1939)に常陽銀行が買収し土浦東支店となった。現在は同行の「クイックステーション」が残る。大正期には土浦の街の歴史を語るのに欠かせない出来事があった。大正11年(1922)、隣の阿見町に海軍航空隊ができた。土浦の市街図をみると、城下町の入り組んだ区画の南側に、八間道路を横軸に整然としたグリッド状の区画がある。海軍航空隊の生活需要に応えるべく湿地帯を造成して新しい市街地を整備した区画だ。現在の桜町で、市中に散在していた飲食店が集団移転させられた。現在も八間道路の南側は関東有数の歓楽街だ。土浦の街は水路の埋め立てが歴史の変曲点になった。藩政の瓦解に伴い埋められた堀を別にすれば、その第1弾川口川1次埋め立てと■園町大正6年(1917)、桜橋から若干下った河岸沿いに土浦繭糸市場が開設された。百貨店を兼業しており繭取引のシーズンオフ期に営業していた。店名を豊とよ島しま百貨店といい土浦初の百貨店とされる。は昭和10年(1935)である。駅前通りに分岐する地点まで川口川が埋め立てられた。川跡には商業地が造成され「祇園町」と名付けられた。これがひとつのきっかけとなり、街の賑わいが街道から祇園町に移っていった。奇しくも翌年、土浦繭糸市場が閉鎖され施設は百貨店専業となった。手元の路線価図でもっとも古いものは昭和34年(1959)である。当時の最高路線価地点を図1に示した。桜橋から祇園町に沿って高価格帯が分布している。豊島百貨店の場所が最高路線価地点となった。図中の“京成跡”の場所である。豊島百貨店は戦後に経営者が変わり霞百貨店となる。その後昭和39年(1964)に京成電鉄の傘下に入り、京成霞百貨店の時代を経て、昭和48年(1973)に土浦京成百貨店となった。また、確認できる限り最も古い最高路線価地点名は昭和44年(1969)の「本町902-5丸彦家具店」だった。この路線には地元有力店の伊勢屋と小網屋も店を構えていた。伊勢屋は交差点に店舗を新築し、高島屋を誘致した。小網屋は大正元年(1912)の創業で、昭和26年(1951)、川口町に百貨店を出店した。2次埋め立てと駅前集積京成百貨店を擁する祇園町界隈に対して駅前は新興勢力だった。後の大型店で最も早かったのは昭和33年(1958)開店の西武ストアー、後の西友である。

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