ファイナンス 2022年4月号 No.677
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D540C470D560C320D570C810C510C295E470D560C1,570C1,620C510C1,560C1,520C1,380C1,410C1,200C360D1,090C490D360D1,080C255E730C610C1,650C2,160C620C1,730C1,720C1,510C400D370D400D340D320D320D400D970C870C290D500D270D2,210C2,240C2,100C1,550C1,500C540C1,130C1,150C900C870C870C850C275D2,550C2,600C2,350C2,390C660C610C550C650C600C1,500C1,430C420D400D390D400D390D410D400D390D410D2,900C2,430C630C2,310C1,900C420D410D420D440D水路から道路へ。近代化に向けた挑戦はつづく第26回 「■城県土浦市」街道と水路の結節点だった桜橋茨城県土浦市は人口約14万人。茨城県南の拠点で、県庁所在地の水戸に対し独自の経済圏を擁している。車のナンバーは、笠間や水戸以北が「水戸」なのに対し「土浦」である。水戸街道と霞ヶ浦水運が交差する場所でもある。慶長9年(1604)、水戸街道が開通し土浦に宿駅が置かれた。街道に沿って町が組織され、南門から田た宿じゅく町、中なか城じょう町、桜橋を渡って本ほん町まち、仲なか町まちと続く。本陣は本町にあった。鉄道が普及する前の時代、都市間輸送は主に河川が担っていた。市内には運河が引き込まれ、水路が街中に張り巡らされていた。鉄道開通後もしばらくは舟運が併用されていたが、舟運の衰退とともに埋め立てられる水路が増えてきた。今月紹介する土浦の街の近代史は水路の埋め立てと関係が深い。享保12年(1727)に川口河岸が整備されて以降は港町でもあった。河岸を出航した高瀬舟は横利根川を通って千葉県の佐原に着く。佐原から利根川を遡上し千葉県野田市の関せき宿やどで江戸川に乗り換え、流山、松戸、行徳を経由し江戸の市街に入った。だいぶ遠回りだが水戸街道を徒歩で運ぶのに比べれば効率的かつ低コストだった。鉄道が開通してもコストメリットはあったため、高瀬舟から蒸気船に進化しつつ、少なくとも明治期は鉄道と舟運が併用されていた。常磐線土浦駅は明治28年(1895)の開業。国有化前は日本鉄道土浦線の駅だった。まずは土浦駅から友部駅までの下り区間が先行し、東京の田端駅に至る上り区間は翌年開通した。後に大塚経由で池袋に支線が延び、今の山手線のルートを辿って横浜に乗り入れた。城下町の時代の土浦市街は、図1でわかるように堀を兼ねた水路が張り巡らされていた。中でも重要な幹線が霞ヶ浦に通じる川口川である。幕藩体制が瓦解し城の堀を兼ねた多くの水路が埋め立てられたがこのルートは残された。水戸街道を通し川口川に架かる橋が桜橋だ。城に通じる水路と街道筋が交わるという点では東京の日本橋と重なる。桜橋も土浦の街の中心だった。ここは旧土浦町の道路起点でもあり橋のたもとに道路元標がある。その脇では天ぷら店「保ほ立たて本店」が明治2年創業時の町家のまま今も営業している。常陽銀行は昭和10年(1935)を創立年としている。当時勢力を2分した五十銀行と常ときわ磐銀行が合併した年だ。常磐銀行は水戸が本店で、第五十国立銀行の2ヵ月後に創業した第六十二国立銀行が源流である。五十、常磐両行の合併で中城町の五十銀行は常陽銀行の土浦支店となった。昭和46年(1971)に旧国道6号沿いに移転。赤レンガの建物は日本信託銀行の支店に使われたこともあったが、その後取り壊され駐車場になった。町家を改修した観光施設「土浦まちかど蔵 野村」の隣である(図4)。中城町には茨城貯蓄銀行の支店もあった。大正15年(1926)に開設され、営業譲渡で常陽銀行の土浦西支店となった。昭和38年(1963)に移転し現況駐車場である。その斜め向かいに茨城農中城町の銀行街桜橋から川口川に沿って川口河岸の港町が、街道に沿って商業地が発展した。中でも街道筋の中城町が賑わい銀行も集まっていた。土浦最初の銀行は第五十国立銀行である。明治11年(1878)の創業で、茨城県内の4つの国立銀行の中でも最も早かった。明治30年(1897)に土浦五十銀行、大正12年(1923)に五十銀行に改称。大手地銀の常陽銀行の祖である。路線価でひもとく街の歴史

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