ファイナンス 2022年3月号 No.676
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鉄道に移っていく。街の中心も駅に向かって移動していった。遅くとも大正期には中心街が竹島町の北側に移っている。大正2年(1913)発行の「安八郡紀要」によれば、当時最も売買価格が高かった地点は郭くるわ町になっていた。現在、郭町には大垣共立銀行の本店がある。明治42年(1909)に安田銀行の系列となった当行は合併・買収を通じて業容を拡大。大正12年(1923)には愛知県進出を果たした。その翌年、俵町の本店は土蔵造で手狭だったため、現在地に近世ルネサンス式の本店を新築した。郭町は名前の通り城郭内の屋敷町だった。街道沿いの町人地に比べ区画が大きく、幕藩体制の瓦解後は比較的閑散としていた。そうした事情もあって役所や郵便局など新しく発足した公共施設は郭町に多い。大垣共立銀行の本店の向かい側に昭和2年(1927)築の鉄筋コンクリート造3階建の建物がある。新築時は大垣貯蓄銀行の本店と、「大ビル百貨店」が入っていた。大ビル百貨店は当地初の百貨店で、貯蓄銀行は昭和18年(1943)に大垣共立銀行に吸収されたが百貨店は残り、戦後は丸物百貨店、名鉄マルイ百貨店が入っていた。現在は大垣市守屋多々志美術館として使われている。昭和18年(1943)発刊の「土地宝典」では地価水準が等級形式で個々の区画別に示されている。本書によれば、郭町の大垣共立銀行の本店の区画が66等で最も高かった。これに次ぐのが街道筋の本町通りで、60等台が多く充てられていた。昭和10年(1935)の大垣商工会議所の調査によれば本町通りは従業員数、売り場面積ともに俵町を上回る、当時最も繁盛した商店街だった。戦争前にすべて無くなったが銀行もいくつかあった。戦後も郭町が街の中心だった。特に、大ビル百貨店の場所から水門川にかかる新大橋までの郭町商店街エリアが発展した。西側に道路が拡幅し、2階以上が住居の集合店舗が次々建てられた。昭和37年(1962)にはグランドタマコシ大垣店が開店。名鉄マルイに続く大型店も繁盛し、報道ベースで最も古い昭和47年(1972)の最高路線価地点は「郭町1丁目青竹堂前通り」だった。青竹堂は洋品雑貨店で郭町商店街の南北の中間点にあった。駅前エリアから郊外へ他方、新大橋の駅側は比較的閑散としていた。ここにヤナゲン百貨店が進出したのは昭和36年(1961)である。当初は総合衣料品店で昭和41年(1966)には百貨店法上の百貨店となった。源流は明治43年(1910)創業の柳源呉服店で元々本町にあった。ヤナゲン百貨店の進出以来、新大橋を挟んで郭町と駅前が客足を競っていたが、次第に駅前が優勢となり、昭和63年(1988)には最高路線価地点が「高屋町1丁目すし半前駅前通り」に転じた。すし半は高屋町交差点と新大橋の中間点、ヤナゲン百貨店の隣にある。この2年前には駅ビルも開業していた。80年代は郭町と駅前がしのぎを削る一方でロードサイド店が出てきた年代である。昭和55年(1980)、広い駐車場を備えたグランドタマコシ鶴見店、その翌図1 市街図卍郭町高屋町勧銀跡大垣共立大垣共立跡市役所旧ヤナゲングランドタマコシ跡青竹堂すし半十六三菱UFJ(旧愛知・東海)旧十六旧貯蓄銀・名鉄マルイ浅沼跡西濃跡村瀬跡大橋跡大垣城大垣公園新大橋本町大垣八幡船町俵町水門川興文小学校船町港本陣跡竹島町卍卍卍卍卍卍卍美登鯉橋四季の広場美濃路共営跡十六跡住吉燈台郭町商店街大垣運河ヤナゲン跡(出所)筆者作成。図中の“跡”は現存しないもの。“旧”は建物が現存あるいは同じ場所で営業を継続しているものをいう ファイナンス 2022 Mar.55路線価でひもとく街の歴史連載路線価でひもとく街の歴史

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