ファイナンス 2022年3月号 No.676
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大垣といえば、東京駅を深夜出発し翌朝大垣駅に到着する快速列車「大垣夜行」を筆者は思い出す。その後臨時列車「ムーンライトながら」となったが昨年廃止された。終点といえば松尾芭蕉「おくのほそ道」の終着地も大垣である。昔から終点に縁があるようだ。舟運の時代の船町港の繁栄戸田氏11代の藩都大垣は街道筋の宿場町でもある。もっとも大垣駅は東海道線だが大垣宿は東海道五十三次でなく、中山道は大垣の北側を迂回している。大垣宿は美濃路の宿場町である。美濃路は東海道の宮宿(熱田)と中山道の垂井宿を斜めにつなぐ脇街道だった。東海道から分岐する宮宿から7番目、垂井宿の1つ前が大垣宿である。交通路としてなお重要なのが濃尾平野を縦断する水路だった。市街を流れる水すい門もん川は揖い斐び川に合流し桑名に至る。桑名は東海道の宿駅で、隣の宮宿と海路で結ばれていた。今は伊勢湾岸自動車道に重なる渡し船の航路を「七里の渡し」といった。鉄道の開通も比較的早く、大垣駅は明治17年(1884)に開業している。優先されたのは、敦賀から長浜駅を経由し大垣駅まで鉄路を延ばせば、大垣で水路に積み替え桑名に向かうことができたからだ。鉄道開通の前年には蒸気船が就航し、鉄路と水路の組み合わせで日本海と太平洋を結んだ。その後、線路は岐阜に延び大垣駅は途中駅となったが、峠越えの難所の関ヶ原の手前ということもあって鉄道の拠点であり続けた。舟運の発着点は城下町南端の船町にあった。船町港といい、元禄時代の住吉燈台が今も残る。松尾芭蕉も次の目的地の伊勢に向けここから乗船。「蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ」の句が残る。“ふたみ”とは伊勢の二見浦のことである。舟運の時代、市街地の重心は川湊の後背地にあった。鉄道開通の1年前、明治16年(1883)の岐阜県統計書によれば宅地の売買価格の最高地点は美濃路の本陣があった竹島町だった。竹島町と船町の間の俵町も商業中心地として賑わい、明治11年(1878)に発足した第百二十九国立銀行が本店を構えていた。旧大垣藩士の金禄公債を元手に設立された銀行で、幕末の藩主、戸田氏うじ共たかの異母兄の戸田氏うじ寛ひろが頭取だった。明治29年(1896)、国立銀行制度の終了とともに発展解消し、今の地域一番行である大垣共立銀行に引き継がれた。岐阜市の十六銀行のように番号を踏襲する銀行が多い中、当行は番号以外の行名にした。それまでの士族中心の銀行から脱却し、士族と平民が一体となって地域振興を目指す意図が「共立」に込められている。初代頭取は藩の城代家老だった戸田鋭之助が就任した。船町港には共営銀行が本店を構えていた。当時の物流ルートを反映し、揖斐川流域から中山道に沿って地盤を築いていた。大垣共立銀行が大正15年(1926)に買収し、現在の船町出張所が営業を引き継いでいる。買収は大垣共立銀行にとって桑名や滋賀県長浜への進出の足掛かりとなった。中心街は郭町へ俯瞰すれば、大垣市街の北のターミナルが大垣駅、南のターミナルが船町港、南北をつなぐ市内交通が水門川と美濃路である。煙を吐く汽車の駅は城下町の外に整備された。鉄道が開通したからといって水運優位の交通体系が急に変わることはなく、明治を通じて船町港の背後の俵町・竹島町界隈が中心街だった。とはいえ世代交代の時間軸で交通の比重は少しずつ54 ファイナンス 2022 Mar.540C560C610C620C400D400D400D570C630C660C650C550C610C600C420D420D400D400D400D410D410D410D420D440D390D390D390D320D320D370D340D970C275D290D270D870C850C870C900C870C360D360D500D730C510C510C810C490D1,090C1,200C1,410C1,380C1,520C1,620C1,650C1,560C1,570C1,510C1,720C2,100C2,240C2,210C2,160C2,350C2,390C1,900C1,500C1,430C1,130C1,150C1,500C1,550C2,600C2,550C2,430C2,310C1,730C1,080C255E295E240E320D275D470D470D540C路線価でひもとく街の歴史第25回 「岐阜県大垣市」水都の風景に蘇る舟運遺産の街連載路線価でひもとく街の歴史

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