ファイナンス 2022年2月号 No.675
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のうち約3分の1が長浜商業開発だった。商店主からみればパウワースのときと同じ集団化の文脈で、生き残りをかけた郊外進出でもあった。皮肉にも中心街の空洞化を進めることにもなった。郊外大型店の進出計画が進む一方、後に伝説となる旧市街再生の萌芽もあった。昭和58年(1983)の長浜城の復元である。約10億円の建設費のうち4億3000万円が市民の募金で賄われた。このときの盛り上がりが後につづく公民連携のレガシーとなった。その翌年には「博物館都市構想」が策定。町家や曳山祭など有形無形の歴史遺構を背景に生まれたコンセプト「伝統を現代に生かし、美しく住む」が旗印となった。昭和62年(1987)、北国街道のカトリック教会が移転し建物が不動産会社に売却された。明治33年(1900)の黒漆喰の建物で、新築時は百三十銀行その後明治銀行の支店だったことから黒壁銀行と呼ばれていた。歴史遺構を保存すべく市の買取が望まれたがそうもいかない。そこで、買取と修繕に必要な1億3000万円のうち市が4000万円を拠出、残りを民間から集め、受け皿として第三セクターを設立することにした。昭和63年(1988)創立の株式会社黒壁である。黒壁の初代社長は地元ゆかりの経営者長谷定雄氏であった。氏は長浜城の復元に兄弟で1億5000万円寄付した篤志家だった。黒壁の場合、個人の寄付ではなく企業の出資で、1口1000万円以上だった。民間8社のうち1500万円を拠出したのが琵琶倉庫と材光工務店である。その後の旧市街再生を主導したのは2社の社長だった笹原司もり朗あき氏、伊藤光男氏である。歴史遺構が人手にわたる危機は免れたが、引き続き維持運営を自弁しなければならない。そこで銀行建築を活用したビジネスに取り組むことにした。町家が軒を連ねる立地を活かし、集客が見込め、郊外大型店に対抗できるコンテンツは何か。商店街と競合しない配慮も要る。打ち出したコンセプトは歴史性、文化芸術性そして国際性の3つだった。たどり着いたのは長谷社長が発案したガラス事業である。仕込み期間を経て平成元年(1989)に「黒壁ガラス館」が開店。奥の元聖堂をガラス工房に、銀行時代の担保蔵はフレンチレストランに改装した。元々はこれら3つの建物からなる四角形の区画を「黒壁スクエア」といった。再生の取り組みは点から面へ当初は歴史遺構の保存と活用が目的だったが、その取り組みは点から線、さらに面へと広がった。まずは北国街道沿いに重点を置き、黒壁が周辺の町家を買取あるいは賃借。統一的なデザインとコンセプトで再出店を進めていった。その結果、カフェやセレクトショップなど直営店舗を含め、黒壁ブランドを冠する施設は30に増えた。黒壁が関与せずともデザインコードに従って周辺の建物の改装が進んだため、年月を経るごとにアンティークな雰囲気の落ち着いた街並みができていった。黒壁スクエアの概念が拡がり、今ではガラス館の周辺を含め黒壁ブランドの店舗が集まるエリアを称して「黒壁スクエア」という。図3 広域図'00~イオン長浜国道8号バイパス北陸自動車道'88~長浜楽市’96~アルプラザ'85~Can's市役所(旧・市立病院)'96~市立病院図1の範囲KBセーレン('30~鐘紡工場)三菱ケミカル('43~日本化成工場)'42~ヤンマー工場日赤病院長浜城(出所)地理院地図vectorから筆者作成。名称左の数字は開設年48 ファイナンス 2022 Feb.連載路線価でひもとく街の歴史

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