ファイナンス 2022年2月号 No.675
51/102

明治34年(1901)に現在の長浜小学校の場所に移り、建物は昭和12年(1937)に駅前通りと北陸街道が交差する角の現在地に移築された。平成12年(2000)の改修で八角塔屋が復元され創建時の姿を取り戻した。銀行の開業も滋賀県初だった。明治10年(1877)設立の第二十一国立銀行である。本店は神戸町にあった。昭和初期の一県一行主義に則り、同じく湖北地方が地盤の伊香、江北銀行と合併し昭和4年(1929)に湖北銀行となる。この時点では湖北経済圏の独立性が当局に認められ、県単位の集約は免れた。昭和12年(1937)に長浜貯金銀行を買収し大手前の通りと表参道が交差する地点に移転した。長浜貯金銀行の本店だった場所だ。長らく独立を保ったが、戦時下の非常時の流れには抗えなかった。昭和17年(1942)に滋賀銀行に買収され同行の長浜支店となる。長浜支店は昭和45年に長浜小学校の隣に移転し、建物は御堂前支店となった。大手町の通りには大垣共立銀行(本店大垣市)や後述する百三十銀行(本店大阪市)の支店もあった。駅前の通りには滋賀県農工銀行があった。昭和13年(1938)に日本勧業銀行に転じたが昭和31年(1956)に撤退。建物は長浜信用金庫が引き継いだ。大正12年(1923)の建築でドーム型の尖塔が目印だったが昭和48年(1973)に解体。湖岸の鐘紡長浜工場が空襲を受けたものの、市街地に目立った戦災はなかった。町家の多くは残り、街の構造も戦前戦後を通じて大きな変化はなかった。地価の分布も同じ具合で、昭和32年(1957)の路線価をみると最高路線価は3地点に分かれていた。御堂前町、横町そして駅前から本町にかけての道路が坪当たり195千円で同額だった。時代は下り、昭和48年(1973)の路線価図によれば最高路線価地点は「国鉄長浜駅前平和堂前」となっていた。m2当たり100千円で、横町64千円、御堂前町45千円というように3地点に差がついていた。地元大手スーパーの平和堂が駅前に進出したのは昭和44年(1969)。店舗面積7,125m2の店舗「長浜ショッパーズスクエア」が開店した。駅前に対抗し、中心街の60の商店主が出資し株式会社パウワースを結成。5階建3,693m2の共同店舗を立ち上げ昭和45年(1970)に完成した。向かい側には西友が進出していた。ふりかえれば駅前、中心街ともにこの頃が全盛期だった。博物館構想と黒壁の取組み昭和47年(1972)に国道8号バイパスが開通。その後、4車線化の進捗に従ってロードサイド店が増えてきた。昭和60年(1985)には地元の材光工務店が手掛けるカラフルタウンCan’Sが開店。転機になったのが昭和63年(1988)オープンの長浜楽市である。ドライブインシアターなど物販以外の機能が充実した、まちづくり型のショッピングセンターのはしりだった。地元商店主が結成した協同組合長浜商業開発と西友の共同開発だったことも業界の耳目を集めた。店舗面積約9,600m2図2 市街図卍卍北国街道大手町表参道大通寺パウワース跡西友跡曳山博物館旧外堀米川至・大津横町舟町呉服町本町旧開知学校湖北跡平和堂跡えきまちテラス平和堂長濱八幡宮神戸町近代の町割黒壁店舗群昭和32年の最高路線価第一小学校跡開知学校跡長浜小旧国道8号21跡勧銀跡信金本店旧大垣共立御堂前町明治ステーション通り安藤家黒壁ガラス館(出所)筆者作成。図中の町名は住居表示前の旧町名を示している ファイナンス 2022 Feb.47路線価でひもとく街の歴史連載路線価でひもとく街の歴史

元のページ  ../index.html#51

このブックを見る