ファイナンス 2022年2月号 No.675
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ターミナル駅だった長浜駅長浜は羽柴秀吉が築いた城下町である。長浜の“長”は上司(織田信長)の名前にあやかった。徳川の治世になると政治拠点は彦根に移り、長浜城も元和元年(1615)に廃棄された。それでも近代に至って栄えたのは、秀吉時代の商業インフラがあったからだ。楽市楽座の下、商人地の年貢が免除されていたが、その制度は彦根藩の管轄下でも継続された。藩政期に認められた免税特区を朱印地という。町衆は通りを挟んで組織化し「町」を名乗った。舟町の吉川家、本町の下村家、呉服町の安藤家が有力で長浜三年寄と称された。また、長浜では毎年4月に長浜八幡宮の祭礼「曳山祭」が開催される。伝統工芸の粋を集めた山車が町内を巡行する祭りで、平成28年(2016)にユネスコ無形文化遺産に登録された「山・鉾・屋台行事」の全国33カ所あるうちの1つである。旧市街の52の町がさらに13にまとまり「山」となり、それぞれ「曳山」と呼ばれる山車を保有する。祭の担い手たる意味を込め、長浜では町衆を「山組」という。長浜は琵琶湖水運と北国街道の街である。琵琶湖畔の長浜湊から米川や旧外堀を通って市街地に舟が乗り入れていた。南北に走る米川~旧外堀が市街地の西辺となり、並行する北国街道が市街地の中心を貫く。鉄道黎明期、瀬戸内海と日本海の連絡と東西幹線の全通が喫緊の課題だった。神戸から東に伸びた鉄道は大津港が終点、敦賀から南進する鉄道は長浜が終点となり、大津港と長浜港は琵琶湖の水路で結ばれた。東京から西進する東西幹線も長浜駅が終点となった。そのため明治15年(1882)開業した長浜駅は、初代大津駅と同じく頭端式のターミナル駅だった。駅の脇に長浜港が整備され連絡船に乗り換えられるようになっていた。当時の駅舎は現在「長浜鉄道スクエア」という博物館になっている。現存する日本最古の駅舎である。向かい側に明治20年(1887)築の日本建築「慶雲館」がある。京都行幸の帰り道、明治天皇が汽船から汽車に乗り換える際に立ち寄られた。御堂前の中心街長浜は大通寺の門前町でもあった。浄土真宗大谷派(東本願寺)の別院で開基は慶長7年(1602)。商人地の東側にあり表参道に沿って門前町が栄えた。明治17年滋賀県統計書をひもとくと、当時の長浜で最も地価が高かったのが大通寺門前の「御堂前町」だった。1反当たりの平均価格は177円で、県内最高の大津(柳町257円)の7割弱で八幡(大杉町178円)と並んだ。当時は彦根(土橋町68円)に大きく水をあけていた。彦根にはまだ鉄道が開通していなかった。琵琶湖北部いわゆる湖北地方の拠点だった長浜だが、学校と銀行は県都より先にできた。学制発布の1年前、明治4年(1871)に滋賀県第一小学校が西本町にできた。明治7年(1874)、神戸町に擬洋風の校舎が建てられ移転。開知学校と名付けられた。その後、学校は図1 長浜鉄道スクエア(頭端式だった初代長浜駅)(出所)令和3年12月16日に筆者撮影46 ファイナンス 2022 Feb.540C560C610C620C400D400D400D570C630C660C650C550C610C600C420D420D400D400D400D410D410D410D420D440D390D390D390D320D320D370D340D970C275D290D270D870C850C870C900C870C360D360D500D730C510C510C810C490D1,090C1,200C1,410C1,380C1,520C1,620C1,650C1,560C1,570C1,510C1,720C2,100C2,240C2,210C2,160C2,350C2,390C1,900C1,500C1,430C1,130C1,150C1,500C1,550C2,600C2,550C2,430C2,310C1,730C1,080C255E295E240E320D275D470D470D540C路線価でひもとく街の歴史第24回 「滋賀県長浜市」博物館都市構想のレガシーと黒壁まちづくり連載路線価でひもとく街の歴史

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