PRI Open Campus ~財務総研の研究・交流活動紹介~ 3栗原所長(以下、栗原):私は1990年から1992年にかけて財政金融研究所に在籍していたのですが、業務内容が当時と変化していない部分と変化した部分があるという印象です。変化していない業務としては、財政史の編纂や財務省図書館の運営、法人企業統計調査等の統計調査、財務省職員の研修などの業務があり、一方で内容が変化した業務としては、開発途上国に対する知的支援や財政経済に関する調査・研究があります。豊髙:開発途上国に対する知的支援の業務と財政経済に関する調査・研究の業務内容の変わった点をそれぞれ教えていただけますか。栗原:まず、開発途上国に対する知的支援の業務についてですが、私が財金研にいた頃に丁度この業務が始まり、体制強化のために私自身も(国際交流課の前身である)国際交流室の設置要求に携わった時期でした。当時は、ソ連が崩壊し、東西冷戦が終結するとともに、アジアNIES(韓国、台湾、香港、シンガポール)が経済発展を始めている状況であり、当時世界的に注目されていた日本経済の成功を背景に、財政経済分野においても日本の財務省に対する技術的支援の要請が強まっていたことが国際交流室設立の背景となっています。その一環として、途上国の財務省・中央銀行からの研修生受入セミナーの実施や途上国からの調査・研修ミッションの受入れが始まり、私自身それらを担当していました*1。当時の途上国は運輸通信インフラも未整備で、例えばミッションを日本に派遣したモンゴルとの直通電話は2回線ほどで使えず、テレックスで連絡が来るとか、ウランバートルと日本との直行便もない状況でした。今回着任して、当時始めた受入研修が継続するだけではなく、後述の通り、ASEAN諸国とのかかわりも進化し、中国・インドとの共同研究も進展するなど30年の間の業務内容の深化を感じました。*1) 当時の財務省の技術的支援の黎明期について詳しく知りたい方は、栗原毅「技術的支援裏方の記―大蔵省における技術的支援の試み―」(『ファイナンス』1992年5月号p.28-39)をご参照ください。*2) 「アジア・太平洋金融・資本市場発展研究会」の活動は、大蔵省財政金融研究所内金融・資本市場研究会編『アジアの金融・資本市場 21世紀へのビジョン』(1991年、きんざい)にまとめられています。次に財政経済に関する調査・研究の業務内容の変化です。1点目は、30年前は研究所ができて間もないこともあり、研究活動はなお所長以下の個人的なリソースに依存する部分が大きかったのに対し、研究会や国際コンファレンス、ディスカッション・ペーパーなどの各種ペーパー類という標準的な研究活動のツールが整備されているという印象を持ちました。こうしたツールは30年の間に関係者が議論を重ねた結果、財務総研にふさわしいツールとして整備されてきた結果だと思います。2点目は、財務総研の海外の研究交流の力点が、当時の欧米諸国からアジア諸国へと変化していることです。1990年頃は、日本全体として、海外留学に行く人も少なく、民間研究機関もでき始めていた頃だったということもあり、財務総研として、NBER(全米経済研究所)やウォートン・スクール、チャタムハウスやLSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)といった欧米の著名な研究機関との共同コンファレンスの開催などに比重がありました。しかし、今では民間研究機関も海外研究機関との交流を深めてきており、財務総研が自ら海外機関との関係構築に配意しないといけない段階は終わったのだと思います。その一方で、財務総研は、アジア経済に注目が集まる前の1990年以前からアジアへの視点を持っていて、当時からアジア経済についての研究会やミッションの派遣も行っていました。例えば、「アジア・太平洋金融・資本市場発展研究会」*2があり、各国毎に金融市場の研究を行っていました。自分が担当して同研究会のASEAN諸国への調査出張ミッション派遣を1991年2月に行ったのですが、東京を出発する前日の夕方に最初の到着目的地のタイでクーデターが起きたというニュースが流れてきて、大変緊張したことは今でもよく記憶に残っています。財務総研の海外交流の力点が、欧米からASEANや中国インドにシフトしてきているのも、30年間のアジア諸国の民主化・経済成長を背景に日本との関係の深化を踏まえた自然な流れという印象です。 ファイナンス 2022 Jan.68連載PRI Open Campus
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