ファイナンス 2022年1月号 No.674
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り、馬場駅から大津駅に至る路線は本線に対する枝線となった。大津が琵琶湖舟運の港町であるには変わらないが、重要性はだいぶ低くなった。連絡船はじめ琵琶湖舟運の経営が受けた衝撃は想像に難くない。各社生き残りをかけて遊覧船に活路を求めた。その後の大正2年(1913)、馬場-大津間の支線に重複する形で大津電車軌道(後の京阪電鉄石山坂本線)が開業。国鉄は支線の旅客営業を廃止し、初代大津駅を貨物線「浜大津駅」に、本線の馬場駅を大津駅(2代目)とした。名実ともに馬場駅が大津を代表する駅となったが、大正10年(1921)、現在地に3代目大津駅ができた際に駅名を返上。いったん馬場駅に戻り、昭和9年(1934)に現在に続く膳所駅となった。におの浜ウォーターフロントの発展大正元年(1912)、南北軸の八丁通に路面電車が開通した。今の京阪電鉄京津線である。当初は京津電気軌道が経営し、京都の三条大橋駅から札ノ辻駅までの路線だった。湖岸の浜大津駅まで延伸したのは大正14年(1925)である。その影響か、戦後の昭和35年(1960)の最高路線価地点は「菱屋町ニューヨークパチンコ前菱屋町商店街側通」だった。パチンコ店は電車通りと中町通の交差点、今の中央一丁目交差点の北西角にあった。菱屋町は明治期に最も地価が高かった柳町と同じく中町通にある。路面電車に引き寄せられたかのように、街の一等地が中町通に沿って西に動いた。戦前には交差点の角に百貨店の源流といわれる「勧商場」があった。戦後は屋号に百貨店を称した複合店もあったが、これを含め他都市にあるような形式の百貨店は起こらなかった。菱屋町は県下一の商業地だったが、京都の繁華街の四条河原町から10kmも離れていない。少なくとも買回り品や専門品の商圏は京都と一体だった。大津に初めて百貨店ができたのは昭和51年(1976)だ。それも菱屋町ではなく郊外で、今でいうウォーターフロントにできた。元々の湖岸線は鉄道路線の内側で、戦後に沿岸の埋め立てが本格化した。戦後早々、線路の外側に市街の東西を抜けるバイパス線「湖岸道路」の造成が始まった。昭和33年(1958)の暫定開通を経て、昭和41年(1966)に全面開通。バイパスの外側も陸地化が進み、様々な公共施設が建てられた。中でも西武百貨店ができた「におの浜」は大規模な半島状の区画だ。完成した昭和43年(1968)には街びらきを記念し「びわこ大博覧会」が開催された。神戸の人工島で開催されたポートピア81の13年前である。その後の跡地開発で高層マンション等が建つ住宅街や商業街ができた。来るべき車社会を先取りした新しい街だ。におの浜の顔でもあった西武百貨店だが、正確には百貨店を核店舗とするショッピングセンターで、大駐車場を備えた郊外モールのさきがけだった。界隈はその後も商業中心地でありつづけ平成8年(1996)には大津PARCOが開店した。生活圏の拡大と草津の台頭商業拠点としてにおの浜が発展する一方、菱屋町界隈の拠点性は弱まってきた。昭和62年(1987)には最高路線価地点が「末広町1丁目日本生命大津ビル前大津駅前通り」に移る。換言すれば菱屋町は大津駅前図4 閉店前の西武大津ショッピングセンター(出所)令和元年11月3日に筆者撮影図3 広域図におの浜旧パルコイオンモール菱屋町旧西武びわこ博跡草津市大津市瀬田川(出所)地理院地図vectorに筆者が加筆して作成65 ファイナンス 2022 Jan.連載路線価でひもとく街の歴史

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