ファイナンス 2022年1月号 No.674
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政治的にも地理的にも京の都が日本の中心だった中世の時代、琵琶湖北端の塩津浜から峠を越えて敦賀に至る「塩の道」で京と日本海が結ばれていた。ここで大津は日本海を向いた京の外港の位置づけだった。逆に瀬戸内海を向いた京の港は伏見である。そして大津は街道の街でもある。江戸時代は東海道53番目、中山道69番目の宿場町だった。連絡船の時代鉄道の時代になっても交通の要衝であることに変わりない。明治5年(1872)、新橋-横浜間にわが国初の鉄道が開通したが、このとき神戸から大阪・京都を経由し中山道ルートで東京に向かう東西幹線、そして琵琶湖と日本海を鉄路で結ぶ計画も進められていた。琵琶湖は水路で行き来するため、神戸からの鉄路は大津駅、関ヶ原や敦賀港から来る鉄路は湖北の長浜駅がターミナルとなった。人や物は大津駅と長浜駅でそれぞれ連絡船に乗り換え往来する。京都-大津間は明治13年(1880)開通。両都市を直線で結ぶには山が険しかったので、京都駅から今のJR奈良線に沿って稲荷山を迂回し、名神高速道路のコースを辿って大津に抜けた。市内に入ってもそこから港までの勾配が急なので、現在の膳所駅である馬場停車場まで下り、スイッチバックの要領で大津港に向かった(図1)。鉄道開通時の大津駅は今の京阪電鉄びわ湖浜大津駅の場所にあった。他の都市では煙害を避け街外れに駅が置かれるケースが多かったが、大津駅は水路と連絡する都合で琵琶湖の岸壁にできた。湖岸まで市街地が拡がっていたので、湖岸に沿って水面に築堤を築き線路を敷設した。水面を埋め立て築堤を築いた点は新橋-品川間、神奈川-横浜(現在の桜木町駅)間と同じである。浜町通の金融街大津は琵琶湖舟運の港町。湖岸に沿って浜町通、中町通、京町通の3本の道が走っていた。このうち山側の京町通が東海道筋である。東海道は北国海道と分岐する「札の辻」で直交して京の三条大橋に向かう。札の辻から山側へ京に向かう道は八丁通といい、琵琶湖の側に向かうと港に突きあたる。岸壁に並行する3筋の道が市街地の東西軸を形成するといえば、10月号で紹介した青森もそうだった。青森は本州と北海道を結ぶ連絡船の街。大津と同じく港の後背地に街の中心があった。明治17年度滋賀県統計全書によれば、大津市街で最も地価が高かったのは「柳町」である。3本の東西軸の真ん中の中町通の町で、舟入堀の大橋堀を突きあたったところにある。琵琶湖の水路と街道の陸路が運河を通して出会う場所63 ファイナンス 2022 Jan.540C560C610C620C400D400D400D570C630C660C650C550C610C600C420D420D400D400D400D410D410D410D420D440D390D390D390D320D320D370D340D970C275D290D270D870C850C870C900C870C360D360D500D730C510C510C810C490D1,090C1,200C1,410C1,380C1,520C1,620C1,650C1,560C1,570C1,510C1,720C2,100C2,240C2,210C2,160C2,350C2,390C1,900C1,500C1,430C1,130C1,150C1,500C1,550C2,600C2,550C2,430C2,310C1,730C1,080C255E295E240E320D275D470D470D540C路線価でひもとく街の歴史第23回 「滋賀県大津市」連絡船で栄えた大津百町図1 鉄道開通当時のスイッチバック至・京都馬場停車場(現・膳所駅)旧・東海道線至・長浜駅連絡船航路初代大津駅(現・びわ湖浜大津駅)大橋堀琵琶湖北(出所)国土地理院地図に筆者が加筆連載路線価でひもとく街の歴史

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