ファイナンス 2021年12月号 No.673
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て、「疑わしい取引の届出」の提出があるが、これは、地下資金対策における官民間シェアリングの特異な在り方を象徴する存在と言って良い。そもそもこの言葉を初めて聞いて、自然な日本語だと思う人は皆無であろう。それも当然で、これはSuspicious Transaction Reportの訳語である。若干長いため、「ウタトリ」と略して使うことが多い。「マネロン」という言葉同様、この「ウタトリ」もだいぶ市民権を得て来たようであるが、ここでも、4文字の語呂の良さからその制度を所与のものと捉えてしまうと、それが持つある種の特殊性は見えて来ない。この制度は、要すれば金融機関をはじめとした事業者に、「マネロン等の疑いがある取引に接した時は、その詳細を当局に報告しなさい」という義務を課すものである。金融機関であれその他の事業者であれ、顧客の属性や態様、取引金額等から判断して、通常の取引ではないと疑われるものに出くわすことがある。その際に、「疑わしい取引」であるとして提出された報告は、最終的に警察庁の犯罪収益移転防止対策室(JAFIC:Japan Financial Intelligence Center)に集約される。JAFICは、日本国内及び他国の同種インテリジェンス機関の多くがそうであるように、オペレーションの内容はおろか、組織態様・所在等に至るまで詳細は非公開である。ここで、提出されたウタトリは、他の様々な情報との突合・分析が行われ、マネロン等の端緒検知に活用されている。なお、JAFIC及び各業界の所管官庁は、このウタトリに係る様式や参考事例集を作成し、公表している*6。さて、一歩引いて考えると、これは尋常ならざる制度である。民間事業者が、法律によって様々な義務を*6) https://www.npa.go.jp/sosikihanzai/jac/index_g.htm https://www.npa.go.jp/sosikihanzai/jac/todoke/gyosei.htm*7) 感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律・第12条*8) 児童虐待の防止等に関する法律・第6条課されること自体は、特に珍しいことではない。しかし、それは例えば運輸業者が事故を防止するための、又は食品業者が食中毒を防止するための各種の安全確保義務、といったように、基本的には当該事業者自身の業務に伴って、社会の福利厚生を害することがないように課されるものである。決して、サービスを提供する対象、つまりお客様の側に何かネガティブな事情があって、ということを想定したものではない。敢えてそのような例を挙げれば、現在の時節柄にも則しているが、感染症法には、医師が感染症を診察した場合、最寄りの保健所長を通じて知事に届け出る義務が課されている*7。しかし、これは医師という職業の特殊性、そして、感染症予防という公衆衛生の観点から定められている、かなり限定的なものであろう。また、近頃社会的に大きな問題となっている児童虐待に関連し、法は「(虐待を)発見した者は…」として、いわば全国民に、市町村等への通告義務を課している*8。ただ、これには罰則規定はなく、実質的な運用面を考えても、現実には努力規定に近いものと考えられる。他方ウタトリの提出は、客の側の行動態様に依拠し、しかもその違反に対しては、まずは所管官庁による是正措置命令が出され、それにも従わない場合には、2年以下の懲役・300万円以下の罰金、またはそ図表2:「疑わしい取引」の報告とその活用「疑わしい取引」・高額の現金を伴う・架空名義使用の疑い・高リスク国が関係する・経済合理性のない取引・顧客の態度が不審等顧客等金融機関等の事業者金融インテリジェンス機関(JAFIC)国内の捜査機関海外のインテリジェンス機関分析情報の提供等・フィードバック所管官庁を通じた報告提出・フィードバック(筆者作成)48 ファイナンス 2021 Dec.連載還流する 地下資金

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