ファイナンス 2021年12月号 No.673
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にあった上野百貨店である。明治28年(1895)の創業時は油屋呉服店と称し、日光街道の本郷町にあった(図1の1’)。後に上野呉服店に改称。門前の店舗は2代目店主の時代、大正14年(1925)に出した支店だった。昭和4年(1929)に上野百貨店となる。戦後は昭和32年(1957)に地元資本の山崎百貨店が開店(図1の3)。昭和34年(1959)東武宇都宮百貨店が開店した(同4)。昭和6年(1931)、宇都宮刑務所の跡地に開業した東武宇都宮駅の駅ビルである。昭和35年(1960)、曲師町に緑屋が開店(同5)。昭和37年(1962)に3番目の地元百貨店の福田屋が開店(同6)。翌々年には上野百貨店が6階建の本館を新築した。昭和40年代は全国展開する百貨店の出店も相次いだ。昭和42年(1967)には丸井が進出(同7)、翌年十字屋が宇都宮店を出した(同8)。昭和46年(1971)には西武百貨店が出店(同9)した。地元勢として上野百貨店は昭和44年(1969)に表参道を挟んで向かい側の馬場町に新館「新うえの」(図1の2)を出す。東武宇都宮百貨店は昭和48年(1973)に当時は市内最大の13,470m2に増床。5年後には地域一番店となった。その後、昭和49年(1974)に山崎百貨店が閉店し緑屋が入居、昭和60年(1985)にams宇都宮に転じた。ざっと数えて百貨店・大型店が8店あったこの頃が宇都宮の中心商店街の全盛期といえる。一足早い車社会化と百貨店の郊外移転車社会化ととも中心商店街の時代は曲がり角を迎える。だいたいの地方都市で商業郊外化の兆候は80年代に表れ90年代後半に本格化する。その中で栃木県の車社会の波は一足早く訪れた。ちなみに昭和41年(1966)時点で世帯当たりの自動車保有台数がもっとも高かったのは愛知県で次が東京都だった。栃木県は20位で、この頃の自家用車は特別な存在だった。以降急速に普及し昭和54年(1979)に栃木県は群馬県に次ぐ2位になる。昭和58年(1983)は世帯当たり1台を超えた。一足早く始まった車社会化とこれに伴う商業郊外化を背景に丸井が撤退。バブル景気が本格化する前の昭和62(1987)の話である。耳目を集めたのは平成6年(1994)に福田屋百貨店が都心店を閉じて郊外に大型店を出したことだ。店舗面積17,000m2の福田屋ショッピングプラザがオープン。後に増床し39,000m2となった。百貨店といえば都心にあるものと考えられていた中、わが国初の郊外型百貨店として話題をさらった。その翌年、地域一番店の東武宇都宮百貨店は35,000m2への増床で対抗。平成8年(1996)には十字屋が閉店し、上野百貨店は本館をパソコン専門店T-ZONEに転換した。戦略としての若者シフトもみられた。平成9年(1997)、馬場通り一丁目交差点の東南角、上野百貨店本館の向かい側に整備した再開発ビルにパルコが入居(図1の10)。平成13年(2001)にはams宇都宮に交代する形で109UTSUNOMIYAが出店した。2000年代に入ると既存大型店の閉店が相次いだ。平成12年(2000)に上野百貨店が経営破たん。先行する福田屋に倣って前年に郊外モール業態の大田原店を開店したばかりだった。平成14年図2 広域図アピタFKDインターパーク店福田屋宇都宮環状道路ベルモール図1LRT(出所)地理院地図vectorに筆者加筆38 ファイナンス 2021 Dec.連載路線価でひもとく街の歴史

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