ファイナンス 2021年12月号 No.673
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歴史的に宇都宮は下野国一の宮の二荒山神社の門前町。諸説あるが二荒山神社の別称が宇都宮の地名の由来となった。近世城下町としては江戸時代の初め、家康側近の本田正純が城主だった時代に町割りの原型ができた。田川に沿って城の東側にあった奥州街道を西側につけかえ、城の西北で日光街道から分岐させた。元々、二荒山神社の社地は下之宮の一帯を含んでおり、奥州街道は社地を迂回するように屈曲している。市街を貫く両街道は日光への参詣路、東北に向かう幹線として往来が絶えず、街道沿いに軒を連ねていた旅館や商店が繁盛した。なかでも本陣があった伝馬町、池上町界隈が賑わっていた。三島通庸の大通り整備明治に入り、戊辰戦争に巻き込まれ宇都宮はいったん焦土となる。その後、廃藩置県を経て宇都宮県の県庁所在地となった。当初宇都宮県とは別に栃木県があり今の栃木市(栃木町)に県庁があった。栃木県南部は県境を越えて両毛地域圏を形成しており宇都宮に対し独立性があった。今も栃木県には自動車のナンバーがふたつある。宇都宮の「栃木」に対し両毛地域は「とちぎ」だ。明治6年(1873)に両県は合併し新制栃木県となったが県庁は栃木市のままだった。宇都宮市に県庁が移転したのは明治17年(1884)である。前後して三島通庸が栃木県令に就任した。本連載の山形市の回で登場した通称「土木県令」である。山形と同じように宇都宮の大改造が始まった。二荒山神社の西隣に官庁街を造成。奥州街道に直交する街路を敷き、突きあたりに県庁を置いた。そして奥州街道の、鉄砲町の手前で屈曲していた先の細道を拡幅し「大通り」を整備した。大通りは市街の東西を直線で貫く横軸となった。田川を渡った東端には宇都宮駅がある。宇都宮駅の開業は大通り整備の翌年の明治18年(1885)。当時の宇都宮市街を大きく迂回して敷設された日本鉄道の駅だった。この頃の駅の吸引力はまだ弱かったが、大通りの開通は街の構造に少なからぬ影響を与えた。街道の分岐点近くにあった中心街が大通りに沿って二荒山神社の周辺に移ってきた。栃木県統計年鑑を調べたところ、遅くとも大正期には二荒山神社の前の馬場町の地価が最も高かった。戦後の昭和35年(1960)の最高路線価も「馬場町、春木屋食堂前二荒神社前通」だった。春木屋食堂は大通りと神社の表参道バンバ通りが交差する馬場通り一丁目交差点の南西角にあり、今も同じ場所で和菓子店と洋食店を営んでいる。大工町の銀行街黎明期の銀行も大通り沿線に立地している。大工町に多かったが、ここは大通りの整備前は裏通りだった。宇都宮初の銀行は明治11年(1878)に開店した第三十三国立銀行の宇都宮支店である。明治19年(1886)には第六十国立銀行が支店を出す。いずれも本店は東京で明治25年(1892)までに休業してしまった。明治20年(1887)に第一国立銀行の宇都宮支店が開業。明治27年(1894)、他の地域と同じように地元行に業務が引き継がれた。宇都宮の場合、引継ぎ先は栃木町が本店の第四十一国立銀行だった。栃木県初の国立銀行で明治11年(1878)の創業。大正7年(1918)に館林の第四十銀行と合併して第八十一銀行となり、大正10年(1921)に東海銀行(かつて名古屋市にあった東海銀行とは無関係で本店は東京)に併合された。昭和2年(1927)に東海銀行は第一銀行36 ファイナンス 2021 Dec.540C560C610C620C400D400D400D570C630C660C650C550C610C600C420D420D400D400D400D410D410D410D420D440D390D390D390D320D320D370D340D970C275D290D270D870C850C870C900C870C360D360D500D730C510C510C810C490D1,090C1,200C1,410C1,380C1,520C1,620C1,650C1,560C1,570C1,510C1,720C2,100C2,240C2,210C2,160C2,350C2,390C1,900C1,500C1,430C1,130C1,150C1,500C1,550C2,600C2,550C2,430C2,310C1,730C1,080C255E295E240E320D275D470D470D540C路線価でひもとく街の歴史第22回 「栃木県宇都宮市」一足早かった車社会化の先のLRT都市連載路線価でひもとく街の歴史

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