ファイナンス 2021年11月号 No.672
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ばかりで、ドコからとなくピアノの音や賛美歌のコーラスを開く時はエキゾチックな気分に陶酔する」と随筆集『読書放浪』に書いている。情報拠点としての銀座居留地には米国公使館もあった。明治7年(1874)に横浜関内から移ってきて、明治23年(1890)に赤坂に引っ越すまで公使館を構えていた。波止場があり、電信が敷設され、外国人向けホテルも整備され、少なくとも計画時点では築地が人や情報の交流拠点となる予定だったに違いない。新橋に開通した鉄道の引力に持っていかれた次第だ。横浜との往来は居留地の波止場ではなく鉄道が使われるようになった。波止場の隣にあった築地ホテルが全焼して4年後、明治9年(1876)に築地精養軒が開業した。“築地”と付くが今の住所で銀座5丁目、かつて銀座東急ホテル、今は時事通信社がある場所だ。みゆき通りをはさんで向かい側は新橋料亭街で、この辺りは築地と銀座と新橋が混ざっている。鉄道開通と同じ明治5年に起きた大火も銀座のターニングポイントだった。築地ホテルから銀座一帯を焼き尽くすほどの災害を機に三十間堀川から汐留川、外堀で囲まれた銀座一帯が耐火建築になった。東京駅のような重厚な赤レンガの建物が並んでいるのとは少々違ったがこれでできた銀座の街並みがいわゆる銀座煉瓦街である。英国人のウォートルスが設計した。今風にいえば銀座再開発である。煉瓦街に変貌した銀座には新聞社が集まった。4丁目交差点の和光の場所は元は朝野新聞の本社だった。東京最初の日刊紙の東京日日新聞は明治9年(1876)から明治42年(1909)まで今の銀座5丁目、イグジットメルサの場所にあった。毎日新聞の源流である。朝日新聞の東京創業の地は銀座6丁目の並木通り、今の「東京銀座朝日ビルディング」の場所にあった。「三四郎」や「こころ」を連載していた夏目漱石や校正係の石川啄木が通っていた。現地には石川啄木の「京橋の瀧山町の新聞社、灯ともる頃のいそがしさかな」の歌碑がある。本社があったのは明治21年(1888)から昭和2年(1927)までで、後に有楽町マリオンの場所に移った。読売新聞は大正12年(1923)から昭和46年(1971)まで外堀通の旧プランタン銀座、今のマロニエゲートの場所にあった。銀座の立地は情報拠点にふさわしい。貿易港の横浜駅とつながった新橋駅前の地の利。北側には金融はじめビジネスの日本橋、東側には官庁街の日比谷、虎ノ門そして霞が関エリアがある。図3 明治43年(1910)の銀座中央通りと帝国博品館(出所)国会図書館デジタルコレクション銀座再開発エリアには新しい店も集まってきた。明治時代、今でいうショッピングセンターのような「観工場」という業態があった。元々は内国勧業博覧会に出品された逸品を場外で陳列販売する店舗形態だったが、転じてひとつの建物に様々な店がテナントで入る商業施設となる。銀座には明治32年(1899)に今の銀座8丁目の新橋のたもとに帝国博品館ができた(図3)。時計塔を掲げた洋館が目を引いた。関東大震災後にいったん途絶えるも、今も同じ場所で「博品館」が営業している。銀座煉瓦街は大正12年(1923)の関東大震災で全焼。ほどなくして銀座に百貨店の時代が訪れる。まずは大正13年(1924)に松坂屋銀座店が開店した。屋上に動物園があった。翌年の大正14年(1925)に松屋銀座店が開店。昭和5年(1930)には三越が銀座4丁目交差点に銀座店を出した。ちなみに時計塔を載せたクラシックな建築が銀座のシンボルになっている和光本館は昭和7年(1932)の竣工。明治28年(1895)の開店で元は服部時計店といった。煉瓦街の時代からメディアの中心だったが、ファッションや社会風俗の面でも銀座は情報発信の拠点だった。洋装のモダンボーイ、モダンガールいわゆるモボ・モガも、カフェー風俗も銀座で発展した。戦後も52 ファイナンス 2021 Nov.連載路線価でひもとく街の歴史

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