ファイナンス 2021年11月号 No.672
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都内で最も高い路線価は銀座中央通りの銀座4丁目交差点をまたぐ地点である。昭和34年(1959)の公表で三愛装身具店中央通とあったので、この頃既に4丁目交差点が一等地だった。本連載4月号の日本橋の回で書いたように江戸以来の中心地は日本橋だった。東京市統計年表によれば銀座の宅地賃貸価格が日本橋を追い越し第1位になったのは昭和4年(1929)。本連載の考え方、「主要交通手段の変遷によって街の中心は移転する」に則れば、その背後に舟運から鉄道へ変遷があったと考えられる。東京に鉄道が開通したのは明治5年(1872)で、ターミナルの旧新橋駅は今の汐留にあった。今の銀座8丁目交差点にあった橋「新橋」の向こう側が駅前広場だった。ひとつの見方だが銀座は「駅前商店街」だったのだ。宣教と文教の街だった築地居留地他方、銀座エリアの内側に着眼すれば、その重心は築地居留地から銀座4丁目交差点に移ったのではなかろうか。銀座といえば戦前はハイカラ、モダンで形容され、現在もハイブランドが軒を並べるファッションの中心地である。こうした銀座イメージの源流は築地居留地にあるという仮説の下、築地から話を始める。安政の五か国条約で横浜等の開港とともに築地の「開市」も決定した。開港と違って恒久拠点は置けないので、横浜を拠点に江戸には短期滞在の出張扱いで商談する目論見だった。いわば営業所のような位置づけである。横浜の関内のように居留地は水路で囲われている。狭義には隅田川、堺川、築地川に囲まれた区画で、広義にはその南北に設定された日本人と外国人の雑居地を含めた区画をいう。雑居地と狭義の居留地の間には居留地を管理する運上所があった。現在、運上所の跡地に「電信創業之地碑」が建つ。明治2年(1869)に本邦初の電信が運上所と横浜裁判所の間に敷かれたことに由来する。雑居地には波止場があり定期船が横浜と往来していた。その南端には「築地ホテル」があった。日本橋の回で触れた第一国立銀行、為替バンク三井組と並ぶ擬洋風建築である。新橋駅を手掛けた米国人建築技師ブリジェンスの基本設計の下、慶応4年(1868)に竣工した。施工は2代目清水喜助率いる今の清水建設。発注元の幕府に財源がなかったため、現代のPFIよろしく資金調達から完成後のホテル経営まで請け負った。インフラは整備され、とりわけ築地ホテルは錦絵映えのスポットになったが、期待されていたようなビジネス街にはならなかった。文久元年(1862)の予定が延びようやく居留地がオープンしたのは幕府瓦解後の明治元年(1868)。横浜が開港して10年経ち貿易港として定着してきた。得意先と見込んだ大名階級だが江戸市中から撤収する者もおり、築地居留地はビジネス展開の上で魅力ある立地ではなくなってきた。そうして築地ホテルは経営が厳しくなり、不幸にも4年後の銀座大火で全焼してしまった。ビジネスパーソンの代わりにやってきたのがキリスト教の宣教師だ。宣教師たちは明治6年(1873)のキリシタン禁制の解除を待って活動を始める。翌年にはローマ・カトリックのパリ外国宣教会の宣教師が居留地の真ん中の角地を借り受け、築地教会を建てた。明治11年(1878)には司教座(カテドラル)となった。以降大正9年(1920)に現在地の関口に移るまで日本の地域拠点のひとつだった。その他プロスタント諸派を含む計13教派が築地居留地に教会や宣教師館を構えていった。50 ファイナンス 2021 Nov.540C560C610C620C400D400D400D570C630C660C650C550C610C600C420D420D400D400D400D410D410D410D420D440D390D390D390D320D320D370D340D970C275D290D270D870C850C870C900C870C360D360D500D730C510C510C810C490D1,090C1,200C1,410C1,380C1,520C1,620C1,650C1,560C1,570C1,510C1,720C2,100C2,240C2,210C2,160C2,350C2,390C1,900C1,500C1,430C1,130C1,150C1,500C1,550C2,600C2,550C2,430C2,310C1,730C1,080C255E295E240E320D275D470D470D540C路線価でひもとく街の歴史第21回 東京都中央区築地・銀座ハイカラの拠点は築地居留地から銀座へ連載路線価でひもとく街の歴史

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