ファイナンス 2021年11月号 No.672
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る。第二章で触れた通り、米国における犯罪対策としてのマネロン規制の礎石の一つは、金融機関をゲートキーパーとして位置付けた銀行記録・外国取引法である。現在では、ゲートキーパー機能を担う業種は拡大されているが、それでも未だに、予防措置をはじめとした民側の実務負担の多くの部分が金融機関によって担われている。そのようなマネロン規制の出自を投影し、現在でも、FATFでの政策的論議を支える各国代表者の多くが、金融監督及び警察両当局の担当者である。日本も含めたいくつかの国は、経緯上財務省が政府を代表しており、また、どの国でも他の関係省庁の有形・無形の関与はあるものの、全体的観察としては、FATFは依然として金融監督者と警察関係者のフォーラムである。その帰結として、ややもすれば議論はサイロ、日本語で言えば「たこつぼ」に陥りがちとなる。局所的な議論とそこから生み出される基準が、微に入り細を穿つディテールを極める反面、例えば国境・国籍管理等は、地下資金対策の観点からも要諦と言える分野でありながら、これまでのところ余り俎上に上っていない論点が複数存在する。また、実体的なカネの流れを見るに当たり避けては通れないと思われる税務等との関連性も、必ずしも十分に議論が尽くされていないように思われる。しかも他方においては、これといわば逆向きのベクトルが存在する。それは即ち、FATFが背負うアジェンダが時を追うごとに政治化し、地下資金対策に関わる技術的な行政官の集団としての、元来の本分を凌駕しつつある、という事実である。特に、2001年にテロ資金供与をその射程に含めたことは、ルビコン川を渡る出来事だったと言える。そもそも何を以ってテロと定義し、誰を以ってテロリストとするかは、その性質上、不可避的に政治的な問いである。ある国や民族にとって恐ろしいテロが、他の立場から見れば正義の闘いとなる。実は、国際社会はこれまでのところ、「テロリズム」・「テロリスト」という概念に対する、包括的な合意形成には成功していない。次善の策として、関連条約においては基本的に「テロ『行為』」を客観的な類型列挙の形で定義し、それを規制の対象とするという方法を取っており、それが地下資金対策の*12) Koh, op.cit., P.108-110枠組みにおいても取り込まれている*12。しかし現実に、世界の複数の国が、民族的大義の実現のためとして、別の立場からはテロ組織とみなされる集団を支援しており、FATFは正に、このような多様な立場を取る国際社会のメンバーを包摂する枠組みである。理念としては、客観的要件の下でのテロ行為を射程にした純技術的な議論を志向するFATFではあるが、実際には、政治的議論との境界は曖昧にならざるを得ない。そして、その後更に拡散金融が追加されたことで、FATFは刑事政策という当初の持ち分を名実ともに超えた、外交・安全保障に係る政策領域を、大規模な「入植地」として抱え込むことになった。これらの柱を射程に加えることは、何れも米国の意向を強く反映したものであるが、当時から慎重論があり、今でもその判断を誤りだったと捉える向きもある。この点に、一意の評価を下すことは本稿の目的ではない。しかし確かなことは、今やFATFは、金融と警察を中心としたテクノクラートのフォーラムには、やや過重とも言える負荷を背負わされている、という事実である。後続の各章において、地下資金対策の各分野についてより詳細な検討を加えて行くが、そこにおいて提示する問題意識の多くは、この3番目のジレンマに関わるものである。各分野において仔細な論点は数多く存在し、ややもすればその隘路にはまり込みがちになるが、実はそれらにも増して重要なのは、議論の射程自体を所与とせず、批判的に検討の対象とする巨視的観点だ。非常に大きい存在でありながら、それが故にその存在が却って正面から気付かれづらく、又は敢えて気付かないふりをされている問題点のことを、英語で「部屋の中の象(elephant in the room)」と表現する。正にそのような象達がたくさんいるのが、この地下資金対策の世界である。日本も責任あるメンバー国として、自らが現行の基準遵守を目指すのみならず、より根源的な論点に関わる基準自体の批判的検討にも、真摯に向き合って行かなければならない。※ 本稿に記した見解は筆者個人のものであり、所属する機関(財務省及びIMF)を代表するものではありません。 ファイナンス 2021 Nov.47還流する地下資金 ―犯罪・テロ・核開発マネーとの闘い―連載還流する 地下資金

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