ファイナンス 2021年11月号 No.672
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ミッショナーとして妹島和世の再春館製薬女子寮の参加を要請し、2000年に伊東豊雄が勝ったせんだいメディアテークのコンペの審査委員長、国際コンペの審査委員もこなし半世紀以上建築に関わってきた建築界のレジェンド。槇文彦と同じ第二世代の磯崎新も2019年に「遅すぎる受賞」とも言われたプリツカー建築賞を受賞。1963年独立し、磯崎新アトリエを設立。1960年代後半から、世界各国の若手建築家と幅広い交友。伊東豊雄は、1970年代の磯崎邸での会について「磯崎さん、篠原一男さん、安藤忠雄さんほか、僕らの世代の建築家など全部で十人くらい。それがなぜか磯崎批判になってしまい、…磯崎さんが、だんだん不機嫌になって、『住宅ばっかりやっているような建築家は、西欧では建築家と呼ばれないんだぞ』と言い出した。そのころ、僕らはもちろん、安藤さんも篠原さんも住宅しかやってないから、それはないだろうということになり紛糾。とても面白い会でした。」という。「70年の万博が終わって、僕は建築だけをやろうと思った。都市はさしあたり、意図的に切る。もちろん国家も関わりたくない。挫折の中での選択でした。」と語る磯崎は、20年ごとのメルクマールになるような建築作品として、丹下健三の広島平和記念館本館の次に、自らの「群馬県立近代美術館」を挙げる。「1.2mを基準とした立方体フレームの集合体が、美術作品を取り巻く額縁に喩えられた空洞として想定されており、美術作品が通過するこの空洞(空間)は流動的に変化し、増殖可能」というコンセプト。この建築で、1975年、磯崎は日本建築学会賞(作品)を受賞。1983年、「近代日本国家が丸ごと作った最初で最後の都市」つくばで、「日本のポストモダン建築の先駆け」とされる「引用の集積のような」建築、つくばセンタービルを設計。ロサンゼルス現代美術館(1986)やバルセロナのサンジョルディ・パレス(1990)など早くから国際的にも活躍。最近も、「流体構造」と呼ばれる異形のフォルム、「カタール国立コンベンション・センター」(2011)、「ヒマラヤ・アートセンター(上海)」(2011)設計。評論や設計競技の審査について。国際コンペの審査は、「フランス語の流暢な喋りで決ま」ったりすると磯崎は言うが、そんな場でも「西洋人が理解できるロジックで説明し、トリックを仕掛けることができる」と言われる磯崎は、40年前に唯一のノンアメリカンとして参加したプリツカー建築賞の設立メンバー。その言葉は門外漢の理解能力を超える。1982年、「高校時代に<群馬県立近代美術館>を見てから、将来は磯崎アトリエに入りたいと憧れていました」という坂 茂は米国の大学を休学し、ポストモダン建築の旗手だった磯崎新アトリエに在籍。「磯崎アトリエは誰も磯崎さんのスタイルを継承しようとせず、磯崎さんの精神を学ぼうとしていたのだと思います。そこが磯崎アトリエのすごいところだと思うのです。そんな磯崎さんが世界で対等に闘っているのを見ていたことが大きかった。磯崎さんから設計の仕方を学んだというよりは、建築家としてのスタンスを学んだ気がします。…1年しかいなかったのですが、敬意をこめて経歴には所属していたと書かせていただいています」という。2021/10/26 8:49群⾺県⽴近代美術館 – Arata Isozaki & Associateshttps://isozaki.co.jp/archives/projects/群⾺県⽴近代美術館/1/2群⾺県⽴近代美術館1971-1974 群⾺県 ⽂化施設 Built Arata Isozaki & Associates Co., Ltd. All Rights Reserved.坂 茂が高校生のときに見て、「将来は磯崎アトリエに入りたいと憧れていました」という、磯崎新の群馬県立近代美術館、Ⓒ高知県,石元泰博フォトセンター)7 最近の国際建築展1895年以来、100年以上の歴史あるヴェネチアで開かれる芸術の祭典ヴェネチア・ビエンナーレ。美術展として出発し、その発展の過程で、国際音楽祭、国際映画祭、国際演劇祭、そして国際建築展を抱えるように。世界三大国際映画祭のヴェネチア国際映画祭は有名だが、国際建築展は1980年に正式にスタート。各回毎にヴェネチア・ビエンナーレ財団が任命する総合ディレクターが設定するテーマのもとに各国が自国のパヴィリオン等に自国を代表する気鋭のアーティストを送り込み、展示する「世界中の主だった建築家の28 ファイナンス 2021 Nov.SPOT

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