ファイナンス 2021年11月号 No.672
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瀬戸内海には同年生まれの安藤が直島に安藤忠雄ミュージアムを設計しているが、2011年、大三島に「今治市伊東豊雄建築ミュージアム」がオープン。伊東は、「いま、どういう建築を作りたいか。ひとことで言えと言われれば、美しい建築を作りたい。それにつきます。」と語る。(5) 坂 茂(1957年~、プリツカー建築賞2014年受賞)木を使った現代建築は多いが、坂 茂は紙を使う。スーパープレゼンテーション、TEDで紙管で作ったトイレは、「もしトイレットペーパーが切れていたら内壁をはがすことも出来ますから(笑)とても便利なわけです」と語る坂 茂。紙管によるルワンダ難民のシェルターや、コンテナを積み上げて、世界各地を巡回するノマディック美術館(2005年以降)など、リサイクル可能な部材を効果的に使う建築で知られ、活動の中心を海外に置き、2004年、ポンピドー・センターの分館の国際コンペで最優秀。曰く、「パリに事務所を借りたかったのですが手が届かなかったので…ポンピドゥー・センターの屋根の上に事務所を」自分たちで紙管で建てて、「1円も家賃を払うことなく6年間そこにいました(笑)(拍手)」という。妹島と同じ世代で、米国の大学を卒業し、順調に建築家としてのキャリアを積むが、「建築家はあまり社会のために役立っていない」と気付く。「建築家を始めたころは、建築家は、例えば、人が家を建てるという人生最高の時に付き合い夢を実現するという、とても恵まれた立場にいるので、自分は建築家という職業を選んだことを喜んでいた」。が、医者や弁護士らは「常に弱者のために働いている。なんと素敵な仕事なのだろうと建築家になったことに少々後悔の気持ちを持ち始めた」という坂。「何か建築家としての経験や知識を利用しても、一般庶民、更に弱者のサポートができるのではないか」と考えていた時、1994年ルワンダの内戦により200万人以上の難民がキャンプでシェルターを作るために木を切ることが大問題になっていた。(高価なアルミパイプを支給したら、難民はお金のために売ってしまった。)坂は、ジュネーブの国連難民高等弁務局(UNHCR)にアポなしで乗り込み、再生紙の紙管を使ったシェルターシステムを提案。紙管シェルターの開発が始まる。1995年1月に阪神・淡路大震災発生。焼失した教会に元ヴェトナム難民たちが大勢集まっているという記事を見つけ「紙で教会を再建しましょう」と提案。「するとこう言われました『アホか!火事の後なのに何を考えてるんだ』」。結局、各企業からの寄付を受けた建材でボランティアにより5週間で完成。人々に愛された教会は建設10年を迎え、震災の被害を受けた台湾に移築され、地域のコミュニティーセンターに活用。「いつの間にか災害支援活動は日常的な仕事の一部となってしまった。」という。坂 茂のポンピドー・センターの分館。「屋根は集成材を中国の竹編み帽子のように編んだ六角形のパターン。巨大な木造屋根がテフロンコートされたガラスファイバーの幕材に覆われ、室内に柔らかい自然光が入る」photo by Didier Boy de la Tour 坂茂建築設計 ポンピドー・センターーメスもともと大学で教える事にも興味があったと言う坂。横浜国大で教えていた時は、「成田から直接横浜までトランクを引きずりながら教えに来て、夜の10時ころまでぶっ通しで授業」し、救急車で運ばれた学生、貧血を起こして倒れる学生が大勢出たり、女の子が泣いて、机上の図面がだんだん濡れてきたという。「安い住宅などの設計から始め、わがままな施主の相手をしながら積む苦労が建築家としての訓練になる…立場の異なるステークホルダーをそれそれに適した言い方で説得し、自分の描いたゴールを目指していく。その話し方や論理の作り方、人との付き合い方を学んで行くのが建築家にとって重要な訓練」だという。(6) 磯崎新(1931~、2019年プリツカー建築賞受賞)学生時代の1952年に「広島平和記念館」の現場を見て感動。「この人のところに行こう」と思い丹下健三の下で広島平和記念公園に関わり、独立後、1970年の大阪万博の会場計画にも深くかかわる。1991年に細川護熙知事発案の「くまもとアートポリス」のコ ファイナンス 2021 Nov.27日本の建築(法隆寺から新国立競技場まで)(下)SPOT

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