ファイナンス 2021年11月号 No.672
30/84

ここでは、現代美術館で極めて重要な要素であるキューレーターが決まっていたため、「設計の早い段階から建物を使う方々と打ち合わせができたのが大変よかった」と妹島は語る。「外周が全面ガラス張りの円形の平屋で、その中に様々な大きさの直方体の展示室が散在するという構成によって、これまでの美術館にない開放感と自由な流動性を生み出し」たという。活躍は国内にとどまらず、2005年、国際コンペで、ルーブル美術館ランスの設計者に。ここでは、5つの四角形がつながる形。「その四角形がほんの少しカーブし斜めになるだけで、全然違う建ち方になり、大らかにゆったり感じられるのがよかった。自分でも少し驚きました。」と妹島は語る。いくつかの国際コンペに勝ち、国内よりも海外のプロジェクトが多いという。そして「内外共にガラスの壁を使うアメリカのトレド美術館ガラス・パヴィリオン(2006)やスイスのツォルフェライン・スクール(2006)など、海外でも実験的な建築に挑戦」しているという。(4) 伊東豊雄(1941~、2013年プリツカー建築賞受賞)SANAAの妹島がその事務所に所属していた伊東豊雄も受賞。槇文彦が主のない「平和な時代の武士達」と呼ぶ伊東、安藤のような1970年代に登場した建築家の世代が1980年代に日本のポストモダンのシーンをリード。学生時代、その頃、ベストドレッサーにもなった丹下健三助教授が「忙しいからほとんど大学に来ない。…そのころからスターでしたから、いつくるかと学生は毎週待っているんですけど、なかなか現れない。」と伊東はいう。大学卒業後、「百メートルを九秒台で走る選手が出て来たみたいな勢いがあった」メタボリズムのメンバー、菊竹清訓建築設計事務所に入り、「腹の底から絞り出すようなアイデアを出す」事務所で「まわりのスタッフも、死に物狂いで出さないと進んでいかない」という環境でスタート。独立後、1976年、姉のために設計した「中野本町の家」は、間仕切りのないU字型チューブのような不思議な形。伊東は「当時、地上にある地下の空間とか、洞窟みたいな空間だと言われました。自分では、身体全体で建築を考えることを、…初めて実現できた」と語る。「ポストモダン建築が一気に花開いた時代」バブル時代。伊東豊雄も作風を変え、「かろやかなヴォールト屋根を架けた自邸」、シルバーハット(1984)で日本建築学会賞。伊東曰く、「80年代の半ば頃は、…すべてに現実感がなくて仮設的というか、夢の中で何かが動いているような時代だった気がします。だから、自分の建築をそういう存在感のないものにしたい、と考えるようになりました。軽いとか、透明とか、風に舞っているようなとか。そういう言葉で表現する建築を考えていました」。1990年代、日本でも、伊東豊雄とその門下生を軸として、軽い建築の潮流が顕著に。1991年の「八代市立博物館・未来の森ミュージアム」で「五十歳にして、初めての公共建築」。しかし、「内部のプログラムに踏み込まないと、本当にやりたいことは実現できない」と感じる。そんな時、コンペの審査委員長の磯崎新が、図書館と市民ギャラリー等の複合施設を「メディアテーク」と言おう、そして「メディアテーク」とはなんであるかを提案して欲しいと訴えた「せんだいメディアテーク」(2000年)のコンペティション。「こんなチャンスはない、絶対に勝ちたい」と思った伊東は、「来た人が自由に過ごせる『場所』をつくろうと考え」、コンペに勝つ。「街の人の流れも変わりました。『せんだいメディアテーク』をつくったことは、僕にとっても大きな転換点になりました。」という。国際的な注目に応え、伊東は、ベルギー、イギリス、シンガポール、台湾などで、新しい建築へ空間と構造を意欲的に展開。「洞窟的な空間が自分の本質なんだと思います」と語る伊東。台湾のオペラハウス、台中国家歌劇院(2016)、「ここも全体が洞窟のようなと言われ、…できあがった時に、自分の建築人生が一回転したなと思ったんです。建築としての還暦だと」。(伊東豊雄の「「全体が洞窟のような」台中国家歌劇院 提供:伊東豊雄建築設計事務所)26 ファイナンス 2021 Nov.SPOT

元のページ  ../index.html#30

このブックを見る