ファイナンス 2021年11月号 No.672
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は、槇が代官山の地主朝倉家(代官山に唯一、戦前から住み続けている一族。)の依頼で30年以上の歳月をかけて実現。建築が町の核を作った好例として、芸術選奨文部科学大臣賞(1973年)、1993年ハーバード大学デザインスクールから「第三回プリンス・オブ・ウェールズ都市デザイン賞」(スクールの50周年記念にチャールズ皇太子が訪問した際に創設)授与など海外でも高い評価。2000年の日経アーキテクチュアで「長い年月を経てのデザインが陳腐化しない建物ランキング」で3位。母校の三田の新図書館も設計。「黒川紀章が慶應の図書館をやりたがっているという話を聞いた。そこでやはり慶應は自分の縄張りだと思って(ヤクザと同じですね)、生まれて初めて営業をしました(笑)。」という。2018年、90歳になっても「『なぜ、まだ仕事をしているのですか』という質問に対し、『いや建築家はニンジンがあれば追いかけているんです』と答える」という槇。数年前、ある講演会でお話しする機会。当時既に80代後半だったが、さすが米国の名門大学でも教えていた建築家、お話しはクリアで、曾祖父の代から慶応で、米国で教えていた頃、学生から「日本人の男性で、あんなハンサムな人がいるのかね」と言われたというだけあるダンディな紳士だった。(3) SANAA:妹島和世(1956年~)、西沢立衛(1966年~)からなるユニット。2010年プリツカー建築賞受賞)1990年代に入り、日本人建築家の海外プロジェクトが増える。そんな中、丹下、槇、安藤に続く、プリツカー建築賞受賞者は「ガラスの空間に回帰しつつ、透明性の操作にこだわり、微妙な調整や幾何学的なパターンによって、視覚的な効果を追求」するというSANAA(Sejima and Nishizawa and Associates)。隈研吾と同じ第四世代の妹島は大学院生時代に伊東豊雄建築設計事務所でアルバイトし、1981年に入所、1987年妹島和世建築設計事務所設立。西沢も、大学院生時代に伊東豊雄事務所でアルバイトし、伊東事務所から独立したばかりの妹島に会う。「当時の妹島さんは、内から出てくるエネルギーがすごくて、爆発寸前の爆弾みたいな感じ」で「服装もすごくて、全身アラビアンナイトみたいな格好」、「一緒に山手線に乗ると、車内全体が緑になっちゃうようなすごい緑色の服を着て」、「とにかく独創的なファッションです。すごいインパクトでした。」、それで、「『この人の事務所でアルバイトをしてみたい』と思ったんです」と語る。1990年、「妹島さん一人ですから、毎日議論しながら建築をつくっていく」妹島和世建築設計事務所入所。西沢によると、3人だった妹島事務所に再春館製薬女子寮という「たいへん大きな依頼が来たので、みんなパニックで、束になって必死でかかるという感じ」だったという。「狭い敷地の中で80人という高密度をどう解決するか」は難しく、「平面構成、空間構成を必死に考え」、「80人が空間内のあちらこちらに、思い思いに滞在するような風景」を思い描き、公園的な風景を建築が作り出すことを目指していると、「トイレがいきなり空間全体を支配するようなストラクチャー」が浮かび「大変ドラマチックな構造の世界がやってきたと感じた」という。1995年、妹島と西沢でSANAA設立。「建築の設計における暗黙の決まり事を解体し、建物を使う人々の間に新しい関係を設定することが、二人の特徴」と妹島は語る。西沢は「一番時間がかかるのが『建物をどう置くか』の部分」だという。SANAAは、美術館建築、展覧会や家具デザイン、空間構成なども幅広く手がける。「どこから来てもそこが正面になるような」外周が全面ガラス張りの円形平屋のSANAAの代表作 金沢21世紀美術館 外観提供:金沢21世紀美術館2004年開館の代表作、金沢21世紀美術館は、円形の建物に複数の入り口があり、正面のない構造。市長の「普段着で来られる美術館にしたい」との意向を受けて、妹島は「この建物は町の中心にあって、人が訪れやすい場所なので、その特性を生かしたいと思って、どこから来てもそこが正面になるような建物を提案」。 ファイナンス 2021 Nov.25日本の建築(法隆寺から新国立競技場まで)(下)SPOT

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