ファイナンス 2021年11月号 No.672
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根を架け、柱が1本もない巨大な空間を造り出す構造。磯崎は、日本モデルを間接的に使ってきた丹下による「東大寺がモデル」の「大伽藍」という。丹下は「代々木オリンピック・プール」で、IOCから功労賞授与、2000年の日経アーキテクチュアでも「長い年月を経てのデザインが陳腐化しない建物ランキング」で1位。隈研吾もこの建築に衝撃を受けて建築家を志したという。1970年の大阪万博。日本の経済成長を印象付ける国家的イベントで会期中に6,000万人来訪。丹下健三は、未来都市のひな型として、樹木状のシステムを持つ会場計画のほか、スペース・フレームの大屋根と岡本太郎の太陽の塔があるお祭り広場をデザイン。丹下健三の快進撃は大阪万博で国内では休止符。1970年代以降の日本では経済成長の停滞で丹下の方法論と経済の実態に乖離。丹下は「活躍の場を彼の方法論が十全に生きる新興国の開発計画に探し求め」、1960年代以降は、「中近東のほかに、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、中南米など、世界各地にプロジェクトを抱えた」という。1987年、プリツカー建築賞を日本人初の受賞。新東京都庁(1991)。過去の歴史を否定するモダニズムに対し、「再び歴史性や場所性を導入して、多様な建築文化を作る」のがポストモダンだという。新東京都庁は、モダニズムの巨匠丹下が国内の大事業に返り咲くプロジェクト。「大聖堂を思わせるシルエットをもち、彼がポストモダンのデザインに移行したことを示した」という。文化勲章、フランスのレジオン・ドヌール勲章など受賞多数。2005年逝去。「建築することとは、単に街や建物を設計することではない、人々が生きているその場のすべて、社会、都市、国家にいたるまでを構想し、それを眼に見えるように組みたてることだ。これが、私たちが教えて頂いた<建築>の本義であります。…日本の近代建築は世界のものになりました。今では、20世紀の世界の建築史はケンゾウ・タンゲの名前をはずして語れなくなったといえるでしょう。」と弟子、磯崎新の弔辞。丹下は自らが設計した東京カテドラル(1964年)に眠る。丹下以後、日本の建築家は世界で活躍するようになる。(2) 槇文彦(1928~、プリツカー建築賞1993年受賞)代官山のランドマーク、ヒルサイドテラス、幕張メッセ、京都国立近代美術館、青山スパイラルやニューヨークのWTC跡地の4WTCの設計者。祖父は竹中工務店の元会長、叔父が慶応の理事で日吉キャンパスつくりに尽力したという。第一世代の丹下に続く第二世代の建築家で、設計に関しては,「徹底的に科学的なアプローチが求められ」たという丹下研で外務省の庁舎の設計に携わる。曰く、「卒業設計が終わってから6月くらいまでの間,アトリエの一員として外務省のコンペを朝から晩までやっていました」。その後、ハーバード大学大学院の修士課程を修了。ワシントン大学とハーバード大学で都市デザインの準教授も務める。1960年、東京に26か国からデザイナーが集まり、世界デザイン会議。これにあわせて、メタボリズム結成。メタボリズムといっても、人間ドックで「男性で腹回り85cm以上」とは無関係。新陳代謝を意味する生物学の用語からとられた、部分の交換可能なデザインを提唱するもので当時32歳の槇もメンバー。丹下はここで次世代を担う日本人建築家に国際的な舞台を用意。「日本から国際建築における最新のトレンドが発信されるようになるのはこの頃から」だという。1965年に帰国、株式会社槇総合計画事務所を設立。帰国後もオフイスを構えながら、1989年まで東京大学教授。1993年プリツカー建築賞など受賞多数。(槇文彦の代表作、ヒルサイドテラス ここでの様々な文化活動に対し、1998年度メセナ大賞授与 提供 HILLSIDE TERRACE)「社会の変化に応じて成長するというメタボリズムの思想が体現された建築」、旧山手通り沿い200メートルにわたって広がる複合建築、ヒルサイドテラス24 ファイナンス 2021 Nov.SPOT

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