ファイナンス 2021年11月号 No.672
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ず21世紀建築文化の基盤であり続けている」という。1926年、彼がそれまでの理論的実験を体系化した今も建築学科の大学院の入試に出る「近代建築5原則」((1)ピロティ、(2)屋上テラス、(3)自由な平面、(4)水平連続窓、(5)自由なファサード」は広く知られ、ル・コルビジェをみて建築家を志した人は多い。1965年、安藤忠雄は一般人の海外旅行解禁翌年にシベリア鉄道でヨーロッパへ。「近所の人たちと水杯を交わし、二度と帰ってこられないかのような雰囲気」で「ル・コルビュジェに会いたい一心で」旅立ったが、フランスに着く直前に他界。しかし、「数々の西洋建築を見て歩くうち、建築とは、人間が集まって語り合う場を作る行為に他ならないと、気付いた」という。こうして「20代の旅の経験から多くの事を学んだ。」という安藤も「私は独学で建築に道に入り、とにかく興味を持った建築を実際にひたすら見て歩くことから始めましたが、…巨匠ル・コルビジェの生き方に、少なからず影響を受けていると思います」と語る。6 戦後の日本の建築家たち戦前からの世界的なモダニズム建築の流れを受け、戦後の日本をみると丹下健三などを第一世代、槇文彦、黒川紀章、磯崎新などの第二世代、安藤忠雄、伊東豊雄のような1940年代生まれの第三世代、バブル景気に沸く1980年代末に建築家としてデビューしたのが第四世代だという。数多の建築家の中で誰を紹介するかは悩ましく、ここでは安藤忠雄を含め7組いる建築界のノーベル賞、プリツカー建築賞の受賞者をご紹介。(1) 丹下健三(1913~2005、プリツカー建築賞1987年受賞)おそらく史上最も有名な日本人建築家。ル・コルビュジェに傾倒し、1938年に大学卒業後、ル・コルビュジェの教え子、前川國男の設計事務所に勤務した後、大学院に戻る。戦時中1942年、日本建築学会主催の「大東亜建設記念造営計画」コンペで一等獲得。戦後、1949年の広島平和記念公園コンペで一等獲得。1951年、イギリスで第8回CIAM(近代建築国際会議)に前川と共に参加し、「広島平和記念公園」で国際デビュー。丹下の下で図面を引いていたという第二世代の建築家、磯崎新は、広島平和記念館本館について「これは『桂離宮っぽい』ということになっています」、「まんなかに耐震壁を入れることによって、横力の計算を外壁から全部内側に追いやるんです。これがのちにコアシステムへとつながっていきます。」という。1963年、22歳の安藤忠雄は「たった一人の卒業旅行」で、夜、広島の平和記念資料館を訪れ、丹下健三作品に感動したという。旧東京都庁(1957):「コアシステム」といえば、旧東京都庁で、丹下は「コア」という構造概念を示す。「コア」とは「建築の荷重を集中的に負担する部分」で階段、空調、エレベーターを収納する「厚い壁で構成された中空柱」のイメージ。残りの部分は「構造的な負担がかからず、機能的な制約から解放され、巨大なコアと細い側柱という明瞭なコントラストを生み出すことに成功」。旧都庁で後の大阪万博の「太陽の塔」をデザインした「芸術は爆発だ!」の岡本太郎(1911-1996)と組む。このように1950年代の半ばくらいから、丹下は国家的なプロジェクトを扱う。翌1958年には、三越の包装紙のデザインで知られる画家、猪熊弦一郎の推挙で香川県庁設計。ここでは「コアはより意識化されて、自由度と造形性がさらに増し」た構造。一階ロビーには猪熊の陶壁画。今は旧都庁は解体されて有楽町フォーラムが建っているが、こちらは今も庁舎として利用され、建築関係者が見学に訪れるという。(隈研吾が東京オリンピックの時に見て衝撃を受けて幼少期より建築家を志したという丹下健三の代表作、国立代々木競技場(旧 国立屋内総合競技場)(1964年)提供 丹下都市建築設計)1964年の東京オリンピックでは国立代々木競技場(旧 国立屋内総合競技場)を設計。ワイヤーロープによる吊り屋根構造。2本の巨大な柱の間に渡したワイヤーロープ(メインケーブル)の左右に碁盤の目状にワイヤーロープを張り、その上に厚鉄板で葺いた屋 ファイナンス 2021 Nov.23日本の建築(法隆寺から新国立競技場まで)(下)SPOT

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