ファイナンス 2021年11月号 No.672
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の各部屋を飾るためにコンドルの指示で買い集められた絵画を義兄弟の久禰に送る。「のちの首相もここでは岩崎家の使い走り」だったという。工部大学校の教授職は、第一回生の辰野金吾が後任となり、コンドルは、建築事務所を開く。この時期の作品は、穏やかな古典主義作品が多く、岩崎弥之助邸(現・関東閣)(1908年)、三井家クラブ(1913年)、島津忠重邸(現・清泉女子大学)(1915年)など。「ジャポニスムの熱に感染した若き建築家だった」コンドルは、日本画の河鍋暁斎(1831-1889)に弟子入りし、「暁瑛」の名をもらい、花柳界の踊り手を妻に迎えた。モダニズム建築の初期1920年、東京で没し、護国寺に眠るコンドルの墓は文京区指定史跡。4 辰野金吾(1854~1919)藩の洋学校で英語教師、高橋是清から英語を学ぶ。コンドルの教育を受け、1879年、工部大学校造家学科を首席で卒業した辰野は、卒業後に英国留学。帰国後、コンドルの後任の工部大学校教授に就任し、長きにわたり人材育成。建築家としては、「辰野式」と呼ばれる煉瓦と石造りの建築で知られる。東京帝国大学教授時代の代表作は1896年竣工の日本銀行本店。さすが日銀、設計にあたり辰野に欧米の銀行建築を調査することを求め、辰野は一年間以上の欧米巡回の旅へ。日銀本店の設計当時、ペルー銀山の経営失敗により全財産を失い路頭に迷っていた高橋是清がかつての教え子である辰野の下での建築事務主任。日銀本店が煉瓦に石張りなのは、石造りの予定の本店を「石造りとすると工費も大幅に跳ね上がる」ため、高橋が石張りを提案し、辰野がそれを受け入れたからだという。(辰野金吾の代表作、日本銀行本店、出典:日本銀行のWebsite)東京帝国大学を退職後、建築事務所を立ち上げ、代表作は東京駅。施工した大林組の社史によると、「明治建築界の元老辰野金吾博士の設計になる今に残る名建築であるが、同時に施工にも素晴らしいものがあった。あの関東大震災でもまったく被害をうけず、昭和20年5月の東京大空襲の際に直撃されながらも、上部だけの被害にとどまり、補修により今も現役のままであることからも、その水準の高さが分かる。」という。教育者としては、西洋建築に加えて、御所大工家の惣領、木子清敬を帝国大学工科大学講師に招聘し「日本建築学」を新設。西洋建築一辺倒であった造家学に、日本の伝統建築を学ぶ講座が初めて作られた。コンドルに先立ち、1919年にスペイン風邪で逝去。「建築家にはなるな」との辰野家の家訓を守り、息子隆は仏文学者に。5 モダニズム建築の巨匠たちコンドルや辰野が相次いで亡くなった頃、日本人建築家は大体1920年までに西欧の伝統的な建築様式を自在に使いこなせるまでに。第一次大戦からの復興期のこの頃、欧米ではモダニズム建築の動き。近代建築の三大巨匠と言われる人達がいるらしい。おそらく日本で最も有名なのは帝国ホテル旧館の設計者、米のフランク・ロイド・ライト(1867-1959)。2人目は、その作品や弟子たちを通じておそらく日本の建築に最も影響を与えた、仏のル・コルビュジエ(1887-1965)。3人目は、隈研吾が建築学科に入学すると、学生たちはコルビュジエかローエのどちらが好きかと頻繁に議論していたという独のルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969)。そのル・コルビジェ。自伝によると、13歳で時計装飾の専門彫金師養成の美術学校入学。16歳で先生から「君には絵画の才能がまったくないよ!」との審判に従い、「建築を始めた」。20代初めにリュックを背に「ほとんどお金もなく」欧州各地を旅したとも言うが、ルーブル宮中庭での葬儀ではフランス文化大臣が別れの言葉を述べ、米国大統領からの談話も届いたという。近代建築への顕著な貢献のため、上野の国立西洋美術館を含む三大陸7か国の17の建築作品が平成28年度にユネスコの世界文化遺産登録。その建築は「広い地域に重大な影響を与え,いまだに少なから22 ファイナンス 2021 Nov.SPOT

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