ファイナンス 2021年11月号 No.672
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でくださいよ」と一言。竹中工務店にいた友人の案内で、「社員でも簡単には立ち入れない」スペシャルデザインルームに忍び込むようになり、社長に見つかり、「よくこんな奥深いところまで、勇敢ですね。」と感心され、励まされ、ご馳走にまでなったという。直島。1988年、公害で荒廃した直島を現代芸術の島にしようとしたベネッセの福武總一郎は「東京を反面教師にしようと思い、建築家も東京ではなく、大阪出身の『戦う建築家』と称されていた」安藤に依頼。最初、理解に苦しんだ安藤も、「経済は文化のしもべである」との福武の「気迫と精神力に掛けてみたいと思うに至った」。1992年に安藤設計の自然とアートに包まれ食事をし泊まることもできる美術館、ベネッセハウスが完成。アーティストが泊まる部屋に絵の具を置いておくと、勝手に絵を描いていくという。当初30万人の来場見込みでスタートし、90万人以上来場した「2010年に行われた瀬戸内国際芸術祭に、多くの人が集まったのには驚いた」と安藤もいう。建築の仕事について、「どんなプロジェクトも、私とスタッフの一対一で進める。…技術が進歩しても、仕事は人と人との生身の対話で進められるべきもの。」という安藤。ハイアットホテルのオーナー、ジェイ・プリツカーが創設した建築界のノーベル賞といわれるプリツカー建築賞を1995年に受賞、2003年文化功労者、2010年文化勲章受章、フランスのレジオン・ドヌール勲章は2005年のシュヴァリエに続き、2021年、コマンドゥール受章など受賞多数。前回ご紹介したユネスコの世界遺産となっている日本の伝統建築から世界的にも高い評価を受けている現代の日本の建築に至るには、多くの建築家達の活躍。ここでは、(1)大工棟梁の時代、(2)「西洋建築の父」、ジョサイア・コンドル、(3)その弟子で日本銀行本店や東京駅の設計者、辰野金吾 (4)日本にも大きな影響を与えた欧米のモダニズム建築の巨匠達を経て、(5)その影響を受けた丹下健三以後の現代日本の建築家、そして、(6)現代日本の建築家たちが活躍する最近の国際建築展をご紹介。2 日本伝統建築棟梁の時代1853年、ペリー来航で開国を迫られ、西欧列強がやってくると、西洋建築が必要になり、大工棟梁がこれを担う。大手ゼネコン5社の社史を紐解くと、家康の時代、1610年(慶長15年)創業の竹中工務店を除くと、1804年創業の清水建設、1840年創業の鹿島建設、大河ドラマ「青天を衝け」の主人公渋沢栄一が設立にかかわり、1888年設立の大成建設、1892年創業の大林組といずれも19世紀に事業開始。大工棟梁の仕事として知られるのは、西洋人建築家と組んだ清水建設2代目、「青天を衝け」にも登場した清水喜助(1815-1881)が建築、施主の幕府の瓦解で清水自身が経営した「築地ホテル館」。木造二階建てで102室、幅70m、奥行き60mは世界遺産の東大寺大仏殿より大きい。当時大変な話題となり、文明開化の東京を代表する建築として津々浦々に知れ渡ったという。3  お雇い外国人の時代―ジョサイア・コンドル(1852~1920)「西洋建築の父」。外務卿井上馨の欧化政策の舞台となった国家の迎賓施設、鹿鳴館(1883)の設計者。明治初期、イギリス建築家協会の設計コンクール、ソーン賞に入賞した将来を嘱望される若者が、日本政府の招きに応じ、弱冠25歳で来日し、東京大学工学部建築学科の前身、工部大学校の外国人教師に就任。その仕事は「建築の造形、構造、設備は無論のこと、材料の調達、建設工事、管理運営、更には暮らし方の指南」にまで及んだという。1898年、岩崎弥太郎の女婿、後の総理大臣、当時、ロンドンの大使館勤務の加藤高明はコンドル設計の岩崎弥之助深川別邸(1889)同潤会青山アパートメントの再開発「表参道ヒルズ」も安藤の建築。地権者との対話を重ね、一部を「そのままの形に復元」し、既存の風景を守るため高さをケヤキ並木と同程度に抑え、容積確保のため地下30mまで掘り下げたという。出展:表参道ヒルズ ファイナンス 2021 Nov.21日本の建築(法隆寺から新国立競技場まで)(下)SPOT

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