ファイナンス 2021年10月号 No.671
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この路線には百貨店が多いときで4つあった。昭和23年(1948)に富士屋百貨店が県庁通の角に開店。昭和25年(1950)には菊屋百貨店が八甲田通との角近くに5階建のビルを新築し移転した。翌年は松木屋が道路向かいに移転。さらに元々大町の呉服店だったカネ長武田が新町に進出した。カネ長武田は今のさくら野百貨店に連なる。数年で4店も開店した反動か、昭和27年(1952)に菊屋百貨店が閉店。後に同店のメインバンクだった日本勧業銀行が移転してきた。再編を経て今はみずほ銀行の青森支店が営業している。昭和30年には富士屋百貨店も閉店している。こちらも跡地は銀行となり、青森銀行新町支店が移ってきた。その後、昭和40年代にかけて松木屋とカネ長武田百貨店は増築を繰り返し、地域一番店の座を争っていた。昭和49年(1974)には五所川原市が発祥の中三百貨店が青森に進出。この時点で中心市街地の百貨店は3か店となった。新町の賑わいを支えた要因に青森魚市場の存在もあった。鉄道の時代になって以降、浜町桟橋から東側の青森港は水産拠点として重みが増し、北洋漁業の基地として発展した。八甲通の先の海岸に、三角はんぺんを立てたような構造物がある。昭和61年(1986年)に開館した15階建の青森県観光物産館「アスパム」だ。以前はこの場所に安方魚市場があった。後背地には冷蔵倉庫や加工場が並び、水産関係者や寄港者が街の賑わいを支えた。駅前には築地場外市場のような産直市場が軒を連ねていた。そのひとつの駅前市場は後年再開発の対象となり、再開発ビル「アウガ」の地階の「新鮮市場」となった。バイパス時代の浜田地区と大型モール昭和50年代から少しずつ車社会化の波が訪れた。他の地方都市と多少異なるのは、その黎明期に地元商店主が主導して郊外進出を果たした点だ。昭和52年(1977)、郊外の観光道り沿いに無料駐車場を配備した大型ショッピングセンター「サンロード青森」が開店した。運営主体の協同組合サンロード青森は地元商店主、日専連青森会の有志27名から始まった。わが国初の地元主導型ショッピングセンターと呼ばれる。核テナントはジャスコ(現イオン青森店)である。その後も郊外進出が続く。平成2年(1990)に東バイパス、平成12年(2000)に西バイパスに地元スーパー主導の大型モールが開店。サンロードの外側の浜田地区にイトーヨーカドー青森店が進出した。浜田地区にはイオンタウン等も進出し、一大商業拠点に成長した。バイパスに沿って展開した郊外拠点に中心市街地は東西南の3方向から包囲されたかたちだ(図3)。加速する郊外化の一方、平成11年(1999)に青森市は街づくりの基本理念として「コンパクトシティの形成」を打ち出した。中心から外に向かってインナー・ミッド・アウターの3層構造とし、無秩序な市街地拡大を抑制し街なか再生を推進する計画である。街なか再生の決め手と目されたのが駅前再開発ビル「アウガ」だった。当初の構想では西武百貨店が核テナントとなる予定だったが、バブル崩壊の余波で白紙になった。再検討を経て平成13年(2001)に地上9階地下1階の再開発ビルが開業。1階から4階がファッションビル業態で、上階には図書館その他の公共施設が入居した。運営主体は青森市が出資する第三セクター「青森駅前再開発ビル」でビルを地権者と共有していた。初年度の売上は目標の半分にも満たない23億円と前途多難な船出となった。期待の一方、中心市街地の衰勢は否めず、平成15年(2003)には松木屋が閉店。跡地はマンションになった。平成16年度以降のアウガの図3 広域図サンロード(イオン青森)浜田地区西バイパス新青森エリア東バイパス青森環状道路観光通り(出所)地理院地図Vectorを基に筆者が地名等を加筆46 ファイナンス 2021 Oct.連載路線価でひもとく街の歴史

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