ファイナンス 2021年10月号 No.671
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業していた。郷土館の旧館は、国立銀行の後身たる第五十九銀行の青森支店である(図2)。昭和6年(1931)の建築で鉄筋コンクリート造2階建。玄関や列柱に古典主義の特徴を備えているが、細部の装飾を排したモダニズム様式に分類される。昭和18年(1943)、第五十九銀行は八戸・津軽・板柳・青森との5行合併を経て青森銀行となる。第五十九銀行青森支店は新生青森銀行の本店となった。なお構成行のうち旧青森銀行も大町に、津軽銀行の支店は米町にあった。青森銀行は昭和45年(1970)、青森市橋本の現在地に本店を新築して移転。旧本店の建物は県へ寄贈され現在に至る。平成16年(2004)には国の登録有形文化財となった。もうひとつの地元行、みちのく銀行の源流も大町界隈にある。前身行の青森貯蓄銀行は大正10年(1921)の設立で、昭和24年(1949)に青和銀行と改称した。昭和51年(1976)には弘前相互銀行と合併してみちのく銀行になる。貯蓄銀行時代の昭和8年(1933)に建てた本店がみちのく銀行の本店となった。昭和53年(1978)、青森市勝田へ本店が移転してからも本町支店として使われていた。また、明治27年(1894)発足の青森商業銀行もみちのく銀行の源流のひとつである。青森市に本店を置き一県一行主義の再編の折にも独立を貫いた。昭和24年に青湾貯蓄銀行を統合し、昭和33年(1958)に青和銀行と合流した。ちなみに貯蓄銀行で戦後に残ったのは全国で5つ。青森、青湾両行は本邦最後の貯蓄銀行である。東京の銀行が店を構えたのも大町界隈だった。最も早かったのは三井銀行で、青森で最も古い銀行でもある。内航海運における青森港の重要性がうかがえる。明治9年(1876)、米町に進出し、明治27年(1894)に撤退した。明治32年に安田銀行が大町に進出。明治36年(1903)に浜町桟橋の通りと大町通の角に移ってきた。大正12年(1923)に青森手形交換所が創設されたときには決済銀行となる。この頃は預金残高も地域トップだった。戦後は富士銀行に改称、昭和46年(1971)に柳町に引っ越した。日本勧業銀行の青森支店は大正12年(1923)に発足。各県にあった農工銀行の再編に伴うものだった。こちらは貸出残高の地域トップ行だった。当時は米町にあったが、戦後の道路拡張に乗じて新町に移転。移転後に第一勧業銀行になり、富士銀行と統合して今はみずほ銀行になった。九十銀行、盛岡銀行など盛岡に本店を構える銀行の青森支店も大町にあった。しかし大町界隈にあった銀行はすべて移転・撤退。現在、旧第五十九銀行の郷土館を除き、かつて銀行街だった面影もない。青森、青湾の両貯蓄銀行、日本勧業銀行青森支店は青森大空襲でも焼け残ったが老朽化には抗えず近年取り壊された。銀行ではないが、カトリック本町教会が明治30年(1897)から浜町の同じ場所で活動している。鉄道の時代の新町と百貨店街明治の終盤、海運から鉄道に交通手段のウェイトが移るに従って、街の中心は駅方面に引き寄せられていった。明治24年(1891)に東北本線が青森まで開通。明治31年(1898)には青森駅構内の船入場に定期船の乗り場が移転した。明治41年(1908)には青函連絡船が就航し、明治43年(1910)には日本郵船が青函航路から撤退。人と物の移動は定期航路から鉄道-連絡船が主流になっていった。大町界隈に代わり賑わったのが、元は街外れだった新町である。大正10年(1921)、当地初の百貨店が柳町通と下新町の角にできた。松木屋呉服店である。昭和10年(1935)年には新町の夜店通側に菊屋百貨店が開店した。新町の発展は戦後も続いた。昭和34年(1959)、青森市の最高路線価は「甘精堂菓子店前新町通」だった。甘精堂は明治24年(1891)創業の和菓子店である。昭和44年(1969)には最高路線価の目印が「成田本店前」とわずかに東に移った。こちらは老舗の書店である。新町全体が賑わっていたが、特に夜店通から県庁通までの上新町が中心だった。図2 青森県立郷土館(旧・第五十九銀行青森支店)(出所)青森県立郷土館提供 ファイナンス 2021 Oct.45路線価でひもとく街の歴史連載路線価でひもとく街の歴史

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