ファイナンス 2021年10月号 No.671
48/94

海運の時代の大町界隈と銀行街青森市街のはじまりは寛永2年(1625)。津軽米を江戸に移出するにあたって弘前藩2代藩主津軽信のぶ枚ひらが新しい港町を計画した。当時の海岸に「青い森」と呼ばれた小さな丘があったのが「青森」の由来である。善う知と鳥う神社の東側に岸壁から浜町、大町、米町の3つの通りが作られた。その南側に並ぶ4つの寺が元々の街の外縁だ。昭和になって住居表示が実施され一帯が「本町」となった。今でこそ歓楽街のイメージだが、元々はこの辺りが街の原型、かつ中心だった。明治6年(1873)、青森と函館の間に定期航路が開設された。明治25年(1892)発行の地図を見ると、当時の乗船場は正覚寺から海に向かった先の浜町桟橋だったことがわかる。桟橋の根元には航路を経営した日本郵船の荷捌き場や待合所があった。陸奥湾は遠浅の海だったので、大型船が港に直接着岸できなかった。そこで浜町桟橋から艀船が発着し、沖に停泊していた定期船に乗り換える仕組みになっていた。鉄道の時代の前は浜町桟橋の後背地が栄えた。現代の市街図に明治の街割りを重ねたものが図1である。銀行も大町を中心に米町、浜町に集積した。荷為替取組を通じて商流・物流の一翼を銀行が担っていることを考えれば自然の成り行きだ。地元行の発祥を辿ると大町界隈に行き着く。まず青森銀行の源流は弘前藩の士族の出資で創業した第五十九国立銀行。創業の翌年、明治12年(1879)には青森に支店を出した。明治15年(1882)から今の青森県立郷土館の場所で営図1 市街図卍卍卍卍浜町桟橋跡勧業跡アスパム(魚市場跡)裁判所浜町大町米町寺町鍛冶町卍さくら野(カネ長武田)アウガ駅前市場跡)松木屋跡♰正覚寺連心寺蓮華寺常光寺旧明治期の町割青い森公園アフロエリア(青森ウォーターフロント)古川市場甘精堂成田本店教会跡盛岡跡青森跡津軽跡県庁三井跡青湾跡商業跡安田跡貯蓄→青和跡柳町武田呉服店跡(出所)筆者作成44 ファイナンス 2021 Oct.540C560C610C620C400D400D400D570C630C660C650C550C610C600C420D420D400D400D400D410D410D410D420D440D390D390D390D320D320D370D340D970C275D290D270D870C850C870C900C870C360D360D500D730C510C510C810C490D1,090C1,200C1,410C1,380C1,520C1,620C1,650C1,560C1,570C1,510C1,720C2,100C2,240C2,210C2,160C2,350C2,390C1,900C1,500C1,430C1,130C1,150C1,500C1,550C2,600C2,550C2,430C2,310C1,730C1,080C255E295E240E320D275D470D470D540C路線価でひもとく街の歴史第20回 青森県青森市桟橋前から駅前へ移った街の賑わい連載路線価でひもとく街の歴史

元のページ  ../index.html#48

このブックを見る