ファイナンス 2021年10月号 No.671
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ど使わないで守り通し、家光は、その大部分を寛永十三年(1636)までに持ち出し社寺の建立などに当て、その最大の使途が日光東照宮。かくの如く社寺には膨大な費用がかかる。関ヶ原の合戦の後、大阪城の金銀をはき出させるために家康は秀頼に南都六大寺の修理をさせたが、豊臣方の修理奉行、片桐且元は、「徹底的に手抜き」をして家康の裏をかいたという。「すべて安上がりのスギ、マツで間に合わせ…ちょっとの間持てばいいとの意図がありありとしている。」「やっつけ仕事の典型」と法隆寺の昭和の大修理をした西岡棟梁は語る。8 平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―(世界遺産登録年:2011年)弁慶の機転で安宅の関をクリアした義経一行は平泉へ。鎌倉幕府編纂の史書、吾妻鏡を紐解くと、中尊寺金色堂について第9巻に「次金色堂上下四壁内殿皆金色也」とあり、当時から上から下、外から中まで金ぴかだったと分かる。マルコポーロの東方見聞録の黄金の国、「ジパングの王宮」の記述は、平泉(中尊寺金色堂。・毛通寺)の可能性が高いという。(吾妻鏡、左頁6行目に「「次金色堂上下四壁内殿皆金色也」の記述。国会図書館デジタルコレクションより」「顕著な普遍的価値」として、「短命であった平泉の都市は、11世紀~12世紀の日本列島北部領域における政治・行政上の拠点を成し、政治的・経済的に京都と拮抗」、「4つの庭園は、当時の支配氏族の北部地域における子孫であった奥州藤原氏により、現世における仏国土(浄土)の象徴的な表現、…実体化した理想郷の光景として造営」、「重厚に金箔を貼った中尊寺の仏堂は、12世紀から残る唯一のものであり、支配氏族の巨大な富を反映」、「平泉の大半は、政治・行政上の地位を失った1189年に滅んだ。それは、平泉のめざましい繁栄と顕著な富を表すと同時に、その急速で劇的な没落を示すものでもあり、多くの詩歌を喚起する素材」となる。「金箔の装飾、蒔絵・螺鈿などの漆芸・金工の意匠・技術を尽くした金色堂は、国内に現存する12世紀の数少ない阿弥陀堂建築の中でも最高傑作」で「藤原氏四代(清衡・基衡・秀衡・泰衡)の遺体及び首級をそれぞれミイラとして安置した霊廟であり、政治・行政上の拠点である平泉において信仰の起点となった建築」という。吾妻鏡によると、秀衡の死後、頼朝の圧力に屈した泰衡は、「豫州在民部少輔基成朝臣衣河舘泰衡從兵數百騎」衣川の館にいた義経を数百騎で襲い自害させ、その首級を頼朝に届けるも許されず、頼朝に攻められ、平泉は炎上。逃げた泰衡は代々の郎党を頼るが、その裏切りで殺され、その首級が頼朝に届けられる。頼朝はその郎党も主人の首を梟すは代々の忘恩として斬罪。そんな平泉で芭蕉は「夏草や つわものどもが 夢の跡」と詠む。9「伝統的建築工匠の技」これらの伝統的建築が今日世界遺産登録されているのは、永続性を考えた建築と適切な保存修理の賜物。平城京跡の復元研究に携わった元文化庁の主任文化財調査官は、木造建築について「木材が破損しやすいという自然の摂理を受け入れながら、建築をできるだけ長く維持できるように、経年破損に対応した構造を持たせ、さらにその修理方法を工夫することにより、石造建築に負けない寿命を獲得した」、「法隆寺の世界文化遺産登録が議論されていたときのことです。最初、西洋の文化財の専門家は、法隆寺金堂や五重塔が今から1300年以上前のものであることをまったく信じませんでした。…木材が1300年ももつなどということは、彼らにとって常識外だったのです。…法隆寺も伊勢神宮と同じように建て替えられて、「カタチ」だけが1300年前のものを伝えていると信じて疑いませんでした。彼らの考えが変わったのは、実際に建物を彼 ファイナンス 2021 Oct.35日本の建築(法隆寺から新国立競技場まで)(上)SPOT

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