ファイナンス 2021年10月号 No.671
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世界最大の木造建築、大仏殿。鎌倉時代の再建の後焼失し、1709年に再建。創建の金堂に比べると、正面の長さが7割に縮小されている大仏殿(正面57m、側面50.5m、高さ47.5m)はそれでもやはりデカい。広い境内の奥にある正倉院もデカく、間口33mは古代に使えた木材の長さの限界10mを優に超えるが、11mの3つの蔵からなる構造。高床式の床下は2.7m。きっとトラックでも通れる。正倉院のような校倉建築は、非常に単純な工法なため破損しにくく、奈良時代のものが現存する要因の一つだという。幅33メートルの正倉院。左手前の警備の人との比較で巨大さがわかる春日大社。創立は、奈良時代初めに遡る。「古くから神の降臨する山として神聖視されていた春日山・御蓋山の西麓に、藤原氏の氏神を祀ったもので、藤原氏や朝廷の崇敬を受けて繁栄」。『萬葉集』には、聖武天皇の天平勝宝四年(752年)、光明皇后が御蓋山の麓の春日野において春日祭神の日に遣唐大使としての旅立ちを前にした甥の藤原清川のために春日の神様からのご加護を願う強い気持ちを詠んだ歌がある。日経の新聞小説「ふりさけ見れば」の主人公阿倍仲麻呂の帰国はこの遣唐大使藤原清河の船への同乗であり、嵐でインドシナに漂着。二人とも帰国が叶うことはなかったという。この時、別の船に乗った鑑真和尚は6度目の挑戦で来日し、唐招提寺を建立。7 日光の社寺(世界遺産登録年:1999年)16世紀後半、台ガンナが登場すると「材の表面の美しさ、精巧さは格段に進歩」。このため、「構造を受け持つ材と見せかけるだけの材(化粧材)との分離がますます進むとともに、彫刻・塗装による装飾が著しく発展」、「また、設計・施工技術の進歩に伴い、そして、工事の入札・請負制度が始まったことにより、生産性の向上や省力化を追求する動きが顕著」になる。「天下統一偉業を果たした豊臣秀吉、徳川家康を称えるとともに、権力を誇示するために、豊国廟(1599年、京都府)や東照宮(1636年、栃木県)といった、彫刻や彩色で彩られた絢爛豪華な霊廟建築が誕生」。ブルーノ・タウトは、日光東照宮について「遊覧案内書の中で日本最大の観物と讃えられているものは実は日本文化の大敗北である。…あれは実はまったく粗野な無趣味ではないか?」という。とはいえ、「日光見ずして結構言うな」といわれる日光は英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、オランダ語、スペイン語、ポーランド語、ハンガリー語、ノルウェー語、スウェーデン語、フィンランド語、ロシア語、中国語などの百科事典等にも掲載されているという。「日光の社寺」の「顕著な普遍的価値」については、「優れた自然環境に置かれた、2つの神社(東照宮と二荒山神社)と1つの寺院(輪王寺)の中の103棟の宗教施設で構成されたひとつの複合体…様々な視覚的効果を生み出すように山の斜面に配置」、「崇拝の長い伝統、高い水準の芸術的偉業、建築と周辺の自然環境との際だった一体性、そして国の記憶の蓄積という極めて重要で永続的な価値が結合していることに、資産の独特な特徴が見られる。」という。元和2年(1616年)に没した家康の遺骸は久能山に葬られ、遺言により翌年にかけて、日光に東照宮が建てられて改葬。秀忠が建てた社殿は、豪壮なものではなく、現在の社殿は家光が大工工事だけでのべ78万人を動員して造替えたもの。この「寛永の造営には、…画工、金工、漆工等の名工も網羅され、当時の美術工芸の最高技術がここに結集」。陽明門は「東照宮建築群の中でも最も彫刻などの建築装飾に優れた建物」。「すべての建築に、その建築に応じた装飾が施され、全体として緊密な衣装的統一を示す」という。兄の家光より弟の国松(忠長)をかわいがった秀忠に家光が三代将軍たるべきことを諭したといわれる祖父家康に対し、家光は信仰にも似た崇敬の念を持ち、家康の夢を見るたびに狩野探幽に家康の肖像画「霊夢像」を描かせたという。今日、その多くが日光輪王寺にある。家康が遺した約二百万両の金銀子の内、御三家に分与された残額百万両余り。秀忠はこれをほとん34 ファイナンス 2021 Oct.SPOT

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