ファイナンス 2021年10月号 No.671
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秀でた芸術性・技術性を示しており、日本に現存する社殿群の中でも唯一無二」。厳島神社は、1168年(仁安3)、平清盛の後援を受けて社殿の造営。その後の社殿規模や配置の基準となったという。「保元・平治の乱における戦功とその後の中央政界における昇進を厳島神社の信仰の賜物と理解し、神社を平家一門の守護神として位置づけ、益々崇敬を深めた」清盛は、「彼の生涯における政治的な節目には必ずと言ってよいほど神社に参詣」。1164年に平清盛・重盛らが一門の繁栄を願い一巻ずつ書写し、工芸技法の粋をつくした巻き物に仕立てた「平家納経」(国宝)を奉納したが、1185年、義経に追われて壇ノ浦で平家は滅亡。(『盛者必衰』の平家物語は、更に「義経の末路」について、平家一族の処置が大方終わると頼朝に刺客を送られ、これを返り討ちにした義経は逃避行。「ついには山伏に身をやつし、北國路を奥州へ落ちた。昨日の勇将も今日は野に臥し山に寝て、枯薄にも心をくだくあはれな身の上」という。)潮が引くと、歩いて行ける厳島神社の大鳥居、どのように固定されているのか。正解、「海底にただ置かれているだけ」。7tの重りを入れていても台風で時々倒れるが、また起こせばよい。自然に逆らわない木造建築の知恵。厳島神社の前で夏に水中花火大会。花火を神社前を走る船から海に投げ入れて、海面で爆発させる光景は壮観だったが、残念ながら昨年から打ち切りに。広島名物「あなご飯」で有名な上野屋が経営する厳島神社の対岸のミシュラン 5レッドパビリオン「庭園の宿 石亭」は、アメリカの日本庭園雑誌Sukiya living:the journal of Japanese gardeningのランキング、2020年も旅館部門No1。6 古都奈良の文化財(世界遺産登録年:1998年)聖徳太子の没後約90年、元明天皇が遷都した奈良の世界遺産は5つの仏教寺院(東大寺・興福寺・薬師寺・元興寺・唐招提寺)、神社(春日大社)、関連する文化的景観(春日大社・春日山原始林)、考古学的遺跡(平城宮跡)。「顕著な普遍的価値」として、奈良が710年から784年まで都だった「時代に日本の国家体制が確立され、その後の日本文化の源泉として奈良は台頭し、栄華を極めた。」、「これらの一群の構成資産は、日本の歴史に政治的・文化的変化をもたらした8世紀の日本の都における宗教や生活の在り方を鮮明に、包括的に示している。」という。まずは東大寺。「仏の加護により国家を鎮護しようとした聖武天皇の発願で建立」。「751年に金堂(大仏殿)が完成、翌年には盛大な大仏開眼供養…、伽藍全体がほぼ完成したのは奈良時代末」、「その造営は国の総力を挙げた大事業であり、空前絶後の巨大な建物群が建設」されたという。木造の伝統建築はしばしば焼失、再建されるため、一つの神社仏閣にも様々な時代の建物が混在。1180年、平重衡の南都焼き討ちで奈良時代に創建された東大寺と興福寺の大伽藍の大半は焼失。直ちに伽藍の再興が始まる。当時、奈良時代の建物が400年経過して老朽化が進み、大修理、建替え時期を迎えたこともあり、鎌倉時代は建築ブーム。東大寺の再建で「大勧進(大規模な寺社・仏像の造立・修理に当たる僧)に任命された重源上人は、全国を回り、勧進(寄付を集める。)。歌舞伎一八番の「勧進帳」のクライマックス、奥州へ落ちる途中、安宅関で義経一行の窮地を救うため弁慶が白紙の巻物を東大寺再建の勧進帳として朗々と読み上げる。再建にあたり巨大な檜(金堂は直径1.5mが数十本も必要)を探したが、飛鳥、奈良時代の建設ラッシュのため檜の大材が殆どなくなっており、周防の国(山口)から調達。当時の技術で巨木を奈良まで運ぶ苦難は想像に難くなく、1195年の金堂の竣工式には、天皇、将軍も参列したという。(宮島水中花火大会 厳島神社 蔵) ファイナンス 2021 Oct.33日本の建築(法隆寺から新国立競技場まで)(上)SPOT

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