ファイナンス 2021年10月号 No.671
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1633年に再建された国宝の本堂、「山の中腹に建つ大規模なこの建築は、前半部が崖に乗る形になり、縦横の貫によって結ばれた高い束柱が支える“懸造”の構造」。「仏堂である石敷の内陣と礼堂である板敷の外陣からなる寄棟造檜皮葺の大屋根」の本堂は高さ12m。清水の舞台から飛び降りたらとても無事では済まなそうだが、実際には明治5年に禁止されるまで江戸時代に234人が飛び降り、生存率85%だという。銀閣寺は、足利義政が1482年東山山麓に造営した別邸東山殿を、義政の死後、禅寺慈照寺としたもので、金閣寺と同様、西芳寺をモデルに1489年に建てられた「下層は書院風、上層は仏堂風につくられ、屋根は宝形造、柿葺で頂部に鳳凰の飾りを持ち、「文化人のサロンとして賑わっていた」という。」。南北朝を統一し、室町幕府の権威を高めた3代将軍足利義満と、8歳家督を継ぎ、政治への関心が薄く、応仁の乱を招いたといわれる8代将軍足利義政は将軍としての評価は異なれども、その遺した金閣寺、銀閣寺により、今日、世界中の人々を魅了している。4 白川郷・五箇山の合掌造り集落(世界遺産登録年:1995年)神社仏閣やお城とは異なり、元々、普通の人々が暮らしている民家。今も人が住んでいたり、民宿(一棟貸し切りも可)として泊まれる家もある。合掌造りで知られる集落は、厳島神社や奈良より先に世界遺産登録。「「合掌造り」とは、白川郷と五箇山地方に特色的に見られる切妻造り・茅葺きの民家の形式。「合掌」は、神仏を拝むときに左右の掌を合わせることを意味し、積雪が多く雪質が重い自然条件に適合した急勾配の茅葺きの屋根の形。「大きな屋根の下は3~5階からなり、1階は広い居室空間、2階以上は屋根裏部屋の寝室あるいは作業空間」。この地域は「17世紀末期から江戸幕府の直轄支配下にあり」、住民の多くは農耕のほかに山林樹木の伐採・搬出や養蚕を生業とし」、巨大な屋根裏部屋は、養蚕の作業などに使われたという。「顕著な普遍的価値」として、「中部地方の険しい高山に囲まれた谷に所在し、長い間、アプローチが困難な秘境の地」の合掌造りは「土地の自然環境及び人々の生活・生業(特に養蚕)に合わせて発展してきた極めて合理的な構造」。「合掌造り民家は群として保存され、その多くは附属屋も原型で残り、密接に関係する周辺の景観も損なわれずにいる」。急勾配の巨大な茅葺屋根が維持されたのは、厳しい自然条件下の生産性の低い山間の土地で生きるには相互扶助が不可欠で「冠婚葬祭や家屋の普請、茅葺き屋根の葺替え時などには「ユイ(結い)」や「コーリャク(合力)」と呼ばれる相互扶助の伝統的な慣習」があったからという。12世紀中期には文献に登場する白川郷は、雪深い冬季のライトアップが美しい、平家の落人伝説の里。(白川郷の合掌造り集落 写真提供 岐阜県白川村役場)5 厳島神社(世界遺産登録年:1996年)平家と言えば、平清盛とゆかり深い厳島神社。江戸時代には既に日本三景とされた宮島。対岸の宮島口から瀬戸内海をフェリーで10分、朱色の大鳥居が見えてくると厳かな雰囲気に。エンジンのない舟で渡るのは一苦労だったろうし、ロープウェーで険しい山肌を一気に駆け上がる弥山は容易に登れるとも思われない。英語でFloating Shrineと呼ばれる厳島神社は、「島全体が御神体であり、神を足元にする非礼を憚り、室町以前は伐採や居住は許されなかった。そのため、社殿を波打ち際に造り、参拝の経路としては海から舟で大鳥居をくぐっておこなわれた」という。「顕著な普遍的価値」として、「厳島は、瀬戸内海にあって、古来、神聖な地として崇められてきた。「厳島神社」の創建は、おそらく6世紀」、「山などの自然物を御神体として祀り、遥拝所を置いて崇拝するという日本の神社の一般的な伝統を示し」、「調和よく配置された社殿群は海上に建ち、中心にある人の手になる建築、前面の海、背後の山の3者が成す景観は、日本人の美意識の一基準として認識されてきた。これらは32 ファイナンス 2021 Oct.SPOT

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