ファイナンス 2021年10月号 No.671
35/94

システム及び独創的な防御装置の一部である、大天守、小天守、それぞれをつなぐ廊下状の建造物で構成される天守群を中心とした82棟の建造物から成る」、「白色の漆喰塗り土壁で統一された優美な外観、及び多数の建築と重なり合う屋根による繊細な構成の両者において、機能と美しさを融合させた木造建造物群の傑作」という。「ほとんど完全な姿で遺存する例は他にない」という姫路城は、将軍吉宗役の松平健が音声ガイドで案内する時代劇「「暴れん坊将軍」のロケ地。3 古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)(世界遺産登録年:1994年)足利義満が遺した金閣寺 鹿苑寺 蔵千年の都、京都の伝統建築といったら、きっと金閣寺、清水寺、銀閣寺あたりに絞らないととてもいけない。京都の世界文化遺産は、賀茂別雷神社(上賀茂神社)、賀茂御祖神社(下鴨神社)、教王護国寺、清水寺、延暦寺、醍醐寺、仁和寺、平等院、宇治上神社、高山寺、西芳寺、天龍寺、鹿苑寺、慈照寺、龍安寺、本願寺、二条城。藤原氏が西方極楽浄土を具現したという平等院鳳凰堂(宇治市)ばかりか、なぜかブルーノ・タウトが絶賛した桂離宮は入っていないのに、信長が焼き討ちした大津市の比叡山延暦寺も含まれるのだから。家康公に怒られるかもしれないが、二条城は別の機会に譲る。古都京都の文化財の「顕著な普遍的価値」は、「古代中国の都城を模して西暦794年に建設された京都は、それ以降、19世紀半ばに至るまで日本の首都であると同時に、文化の中心」、「千年以上にわたる日本文化の中心地として、日本の木造建築、特に宗教建築の発展、及び世界の造園に影響を及ぼしてきた日本庭園の芸術性の発展を示」すという。建造物や庭園のほとんどは、10世紀から17世紀(平安時代から江戸時代)にかけて建築・作庭。894年に遣唐使が廃止され、国風文化が発展。建築の世界でも、6世紀に大陸から伝わった建築技術は、次第に国風化するとともに技術的にも大きな発展を遂げ、鎌倉・室町時代には、構造技術的な面においてはほぼ完成の域に達したという。大工道具にとっては大変革の時代。室町時代まで用いられたヤリガンナは、台ガンナに取って代わられ、同時に、ノコギリが入ってきて、ノミもまっすぐになる。法隆寺の西岡棟梁は、「柱は細くなり、その分だけ装飾が増える。細かい作業が必要なので、ノコギリは外国のように「押す」のではなく、「挽く」ことになった…。寸法通りの注文生産、大量生産が可能になり、「規格文化」が進む。そうした技術を背景にか柱は無地が好まれだす。…豪華で繊細で、外面的には整った室町以降の建築は、同時にいたみが早く、修理の頻度が高くなる」という。まずは、金閣寺。鎌倉時代に造られた西園寺家の別荘を、将軍を退いた足利義満が1397年に譲りうけ、粋を尽くした別邸北山殿に造り替えたもので義満の死後、夢窓疎石を開山とする禅寺鹿苑寺となる。北山殿の庭園は、「衣笠山を借景に、鏡湖池に様々の名石を据え、池に向かって三層の豪華な舎利殿:金閣を建て、山上に展望所」、「庭園の景観を高め、かつ上層から園内を眺望することができ、遊興や社交の会合にも利用」されたという金閣は、「最上層を禅宗様仏堂の形式として仏像を安置し、初層を住宅層、2層を和洋仏堂風に造り、これらの内外を金箔で覆」う。応仁の乱(1467~1477)で大きな打撃を受け、1950年には火災により、義満の時代から唯一残っていた金閣が焼失。1904年の修理の詳細な図面により1955年に正確に復原。再建前は三層にいくらか金箔が残っていただけで、焼失翌年、三島由紀夫は小説「金閣寺」で、金閣寺に放火する「私」が金閣寺を始めて観たときに「私はいろいろに角度を変え、あるいは首を傾けて眺めた。何の感動も起こらなかった。…美というものは、こんなに美しくないものだろうか、と私は考えた。」と言わせているが、再建により二層、三層も金箔で覆われた姿に。清水寺。780年に私寺として建立、805年に桓武天皇の勅願寺となり、創建後9回の火災焼失の都度再建。 ファイナンス 2021 Oct.31日本の建築(法隆寺から新国立競技場まで)(上)SPOT

元のページ  ../index.html#35

このブックを見る