ファイナンス 2021年10月号 No.671
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を新しくせねば持つまい、というのが大方の予想」だったが、結果は全く違い、五重塔の場合、「三割ちょっとの取り換えですんでしまった。それも軒など直接に風雨にさらされた部材がほとんどで、柱などはそのままで十分だった。」という。西岡棟梁が、「世界で最も美しい仏画だと、今でも思っている。…やわらかく、温かい感じであり、ながめているだけで、魂が洗われ、雑念がなくなる。―浄土とはこういうものか。と、感じさせられた。」という法隆寺の金堂壁画が昭和24年に焼失。これが、文化財保護法制定のきっかけになり、宮大工の日当も一日八円二十銭から「いきなり一日四百五十円にはねあがった。」という。607年に聖徳太子は遣隋使を派遣、隋との交流開始。文化庁の「世界遺産 文化遺産オンライン」を見ると「顕著な普遍的価値」が世界遺産の要件の一つ。「この世界遺産は法隆寺と法起寺の2つの寺院における48棟の木造建造物から成る。…「法隆寺地域の仏教建造物」は、日本に仏教が伝来した直後に創建された日本最古の仏教建造物であり、その後の寺院建築に多大なる影響を与えた。…法隆寺はいったん670年に焼失…、再建は…8世紀初頭まで続いた。」、「建造物は中国の柱間構造を基にしており、これは入り組んだ肘木によって急勾配の屋根の重みを巨大な木造の支柱に分散させる軸組工法を改良」(西岡棟梁は、「日本は雨が多いから軒を深くしなければならない…。中国はずっと短い。とにかく、外から教わっても鵜呑みにせず、すべて日本の風土に合わせて工夫した」と語る。)、「木造建築の傑作は、中国の仏教建築及び伽藍配置が日本文化に取り入れられたことを示していることから、芸術史上において重要であるのみならず、建築時期が朝鮮半島を経由して仏教が中国から日本に伝来した時期と合うことから、宗教史上においても重要」、「法隆寺は創建時から天皇家の保護を受け、さらに、12世紀頃より盛んになった聖徳太子を尊崇する信仰により、多くの信者を引きつけた。その結果、法隆寺は常に完璧な形で維持保存されてきた。」という。かつて1万円札の肖像であったことを知る世代は、聖徳太子の有難さを実感できるかもしれないが、多くの信者を引き付けた太子の御威光は没後1400年という遙かなる時をこえて、法隆寺を今日に伝える。2 姫路城(世界遺産登録年:1993年)聖徳太子から約1,000年、時は安土桃山時代。お城の天守閣は、信長が「一人で構想して一気に作り上げた」と言われ、天守閣の周りに何重にも廓があるお城は安土城に始まるという。信長に18回も会見したイエズス会のポルトガル人宣教師、ルイス・フロイス曰く、「信長は、中央の山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それらはヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである。…〈城の〉真中には、彼らが天守と呼ぶ一種の塔があり、我らヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である。この塔は七層から成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営された。事実、内部にあっては、四方の壁に鮮やかに描かれた金色、その他色とりどりの肖像が、そのすべてを埋め尽くしている。外部では、これら〈七層〉の層ごとに種々の色分けがなされ…それがこの上ない美観を呈している」。安土城は本能寺の変の後に焼失。祖母がその信長の乳母で、父と共に信長に仕え、秀吉にも可愛がられた池田輝政。外様ながら家康の次女・督姫を妻に迎え、関ヶ原の戦いの功で家康により1600年に15万石から52万石に加増され姫路城主に。翌年から1609年にかけて古城を廃して新たに城を建造、現在残る姫路城この時のもの。あいにく世界遺産に選ばれたことがなく、どうして法隆寺の次が姫路城なのかはわからないが、最近、大修繕により輝く白さになった白鷺城の名に相応しい姫路城は、数多の城の中で唯一、単独で世界文化遺産登録。「姫路城」の「顕著な普遍的価値」について、「封建時代初期(17世紀初頭)以来の高度に発達した防御(最古の木造建築、法隆寺を建立した聖徳太子は7回もお札の肖像に。1万円札の透かしは法隆寺の夢殿 国立印刷局 お札と切手の博物館ホームページより転載)30 ファイナンス 2021 Oct.SPOT

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